ニコちゃんマークの出所

子育てのニコちゃんマーク、どこかで見たことがあるような・・・

と思ったら、それは「がんの疼痛スケール」ですね。がんの痛みに苦しむ患者さんたちのために開発されたスケールで、「現在の痛みの状態」を患者さんに指差してもらうもの。「痛み」というとても主観的な感覚を客観的に評価し、お薬のコントロールやその他緩和ケアに役立てるためのツールなんですね。とにかく「痛み」のただ中にいる人に「どんな痛みですか」「どれくらい痛いですか」と聞いても、それを表現する言語を(我々人間はみな)持たないと言いますか、「昨日よりはちょっとまし」とか「昨日よりうんと痛い」というように「比較のうちでしか」語れない状況に置かれるのだと思うのですよね。そのような意味においてこういったスケールの必要性は感じるのですが、何で子育てで・・・?初めのうちは理解できなかったのですが、よくよく考えると確かに私が子育てを一番きつく思ってしんどかった頃、「とにかく3日間だけでいいから入院したい」と本気で思っていた頃、「何がしんどいのですか?どれくらいしんどいんですか?」と聞かれても何も答えられなかっただろうなぁと。あんまりに苦しくて、自分の置かれている状態を説明する言葉を持たなくて・・・「もうとにかく、この涙流しているコレです、コレ!」と言っていたと思います。そう言ったところでどうなる?入院させてもらえたのか?なんていうことはよく分かりませんが(支援と繋がっていなければ、スケールの意味はないんですけどね)、「本当にしんどい時には、言葉を失う」ことを考慮されてのものだとしたら、何となく理解と共感は寄せられそうな気がします。ま、たぶん違うのでしょうけれどもね。とにかく「ニコちゃんマーク、どれかな〜?」と迷える元気と余裕のある人には全く必要のないスケールなわけですね、実際。

ところで私も健診には危機感を抱いているのですが、それは健診のあまりの「ざる」加減・・・つまり「涙を流しているニコちゃんマーク」(←かなりの形容矛盾ですが)の人を拾い上げられていない状況に対してです。精神科の診療に関わっていると、「何でこの人、これまで何の支援ともつながっていないの・・・?保健所は一体健診で何をやっているんだ!?」というケースにも出会います。健診の意味や目的は色々とあると思いますが、私が思う「健診の最大のミッション」は「本当にしんどいけれども、どうしていいか分からないひと、助けを求める力がないひと」をどうにか拾いあげて、地域社会で支えていくということなのですが、その機能を全く果たしていない。実際子どもを連れて健診に行ってみても、あんまり同業者を非難したくはないのですが、全然「本気じゃない」んです。つまりとても形式的で、「聞くことだけ聞いて、することだけして、おしまい」。困っている人はいないだろうか、支援の必要な人はいないだろうかという視点での関わりは全く感じられませんし、いわゆる「お上かぜ」すら吹かせていません。予防接種も我が家は受けたり受けなかったりしていますが、それに関してもノータッチ。「お母様のお考えによるものなのですね。」と言われておしまい。別にそれが悪いとは言いませんし、何か言って欲しいとも思っていないのですが、その態度の裏には「聞くべきことは聞きました。あとは自己責任です」というメッセージが潜んでいるような気がしてゲンナリします。そう思うと「予防接種を受けてない子どもの診療はせん!!」と叱ってきた小児科医に私は以前腹をたてて泣きましたが、まぁ彼の考え方には偏りがあるものの、「子どもにとってこれがいい」というところを彼なりに信じて責任を引き受けているのだとも言え、よっぽども愛があるといえばあります。まぁそれは置いておくにしても、組織全体が「防衛体制」に入っていて「法律上すべきことをする」以上のことはしたがらない(もしかしたら、できない)し、責任を引き受けようともしない。それは残念ながら保健所だけに限らず、最近では福祉もその傾向が強くなってきているようで、福祉との連携の欠かせない職場でも非常に大きな問題になってきています。ついこの間も「福祉には、変な人が増えてきた・・・私がヘンなのか?時代についていっていないのか?」なんて笑えない笑い話が出たところ。いや本当に保健や福祉が「自己責任」を説くようになったらおしまいだろうと思うのですが、小泉改革の余波なのか?少しずつ「自己責任論」に浸蝕されている気配を感じて危機感を抱いています。とはいえ、保健所の保健師さんたちは事務処理でてんてこまい、聞くところによると健診の保健師さんたちはパートタイムのアルバイトだそうですし、その中には私みたいなペーパー保健師さんだって含まれていることでしょう。そんな事情を思うと、あんまり責められない気持ちにもなってしまうのですが・・・と言いつつ、カナさんとはまた違った角度からの「健診」批判でした。

でもね、批判してからちょっぴり反省。とにかく何でもそうだと思いますが、健診が形骸化しているのであれば、それに代わる何か・・・必要な人に、必要な支援を届けるための方法を、皆で模索していくよりほかありません。本来であれば公的機関にかわって、「何か困っていること、ない?」と目配せ、気配りができる「よき隣人」として自分を機能させること、「ほかの子ども、標準というところに囚われずに、子どもの発達を見つめて手を差し伸べていく」という成熟したオトナの在り方を確立していくこと、から始まるのでしょうが、自分を含めてなかなか厳しい道であることは否めません。しかしながら隣人への支援と、子どもの「育ち」を(公的機関に)アウトソージングしない、ということは、それらを自分たちが引き受ける、ということにほかなりません。そうなるともしかしたらこれからは「公的機関主導の地域社会」ではなく、「地域住民ひとりひとりがよき隣人として助け合う地域社会」を目指さなくてはならないかもしれない。そのために自分に出来ることは何か、ということを皆で一緒に考えていけたらいいなぁと思っています。きっとカナさんの新しい取り組みも、その一助になるのだろうと期待を寄せております。