そっとくるんでポカンと一時停止

ヒコがお腹にできたとき、いちばん最初に行った病院で、おばさんの先生から、
「仕事はしてるの?」と聞かれて「はい」って言ったら、私の仕事がどんなものかも聞かないまま、
いきなりトーンが上がって「妊娠や出産も立派な仕事なのよ!」と怒られた。
そりゃそうかもしれないけど、すごーくイヤな気持ちになって、2度と行かなかった。
あの先生って、仕事してる妊婦をいちいち怒ってるのかな。大変だな。

子どもを産んだり育てたりすることはすごく大事だし、すばらしい。
でも、仕事も好きだ。
仕事をして得られるすばらしい気持ちと、子どもと過ごして得られるすばらしい気持ちは、違うものだ。
どちらがたっぷりあるからって、違うほうも満たされるというものではない。
私はいま、子どもが生まれる前と比べると、比べること自体が悲しみとなって襲ってくるほど、本も読んでいないし、じっくりとものを考えたり、なにかを作ったりすることができない。でも、それはその悲しみをそっとくるんでおいたまま、いまできること…とりわけ、小さい子どもがいる暮らしを生きている。寝る間を削って死ぬ気でやれば仕事もできると言われるかもしれないけれど、それ、ほんとに死んでしまう。体がひとつだってこと、ずっと寝ないでいることはできないってこと、有限ってこと、乳を出すには食べなきゃいけないってことなどなど、特にもう40なので、しみじみ思う。限りがある。限りがあるから、それを振り分けなくてはいけない。
「我慢してる」というのとも、ちょっと違うのだけど、仕事したいという気持ちはそのままに、とにかくそれをそっとくるんで置いておいて、乳を出し、毎日の送り迎えをし、炊事洗濯をしつつ、〆切のある仕事をして生きている。「子どものために幸せはあきらめる」のでも「どっちもあきらめない!」でもなく、…そうだな、「プリンタのジョブ一時停止」みたいな感じ。
こんなこと言うと、「子どもがいない人」とか「仕事がない人」の「身にもなってみろ」っていう断罪やら断言やらの「つぶて」が飛んできたりするんだけど、そういう「弱いもん勝ち」の「正しさ」や、極端な状況設定による、その中間にただようもの(本当はそっちのほうが断然多いはず)の斬り捨てにはひるまない。私はいま「愛すべき仕事があって、愛すべき家族がいて、でも1日は24時間で、体はひとつ」という状況にある人の、時々見舞われるやるせなさについて記している。それは、どんなに断罪されても、贅沢だと言われても、たしかにあるものだから。「子どもを取るか仕事を取るか」と言われたら、子どもを取るに決まっている。でも、日々を生きるってことはそんなことじゃない。「子どもがなかなかお昼寝しないから、仕事の予定が進まない…どうしよ…」ということで埋め尽くされている。そしてそういう状況にあることが自分だけじゃないということが、具体的に記されていると、別に助け合えるわけじゃないけど、ホッとする、こともある。それもわかんないけど。でも、だいたいこういう状況にある人って、思い詰めすぎていたりするから、もっとポカンとしてもいいんじゃない?と、自分も含めて思っているところだ。

久しぶりに書いて、なんだかとりとめもないですが、いい年になりますように。