許されている

明日も仕事なので、またまた事前投稿。
ところで、「妊娠、出産、育児をめぐる諸言説」に振り回されてしんどくならないためには、本当に「縦のつながり」「横のつながり」というものは大切ですよねぇ・・・私もこれまでにずいぶん、世代を超えた方々とのおつきあい、お母さん友達たちとのおつきあいの中で、「ええーい、こんなこと、笑いとばしちゃえ〜!」と思ってきたことがたくさんあるように思います。ありがたい、ありがたい・・・そしてそれに加えて、私が思う「妊娠、出産、育児をめぐる諸言説に振り回されずに、明るく朗らかに子どもとの日々を楽しむ」ことに役立つのが「科学に親しむ」「専門家と上手につきあう(ゆきさんの『話半分に聞く』と同義)」「自分の心の構えに気づく」の三点セットなのですが・・・これはまた、いずれ別の機会に。自分を守りながら、そして楽しんで日々過ごすことができるように、いろんな角度から諸言説の縛りを解いていけるといいなぁ。私もそんなふうに思っています。

というのはさておき。以下が本文となります。

つい先日、インターネット上でたまたま見つけて読んだ三砂ちづるさんの文章に・・・落涙。普通論理的な文章に泣けるなんていうことは滅多にないと思うのですが、もう熱いものがこみあげてきてこみあげてきて、びっくりするほどでした。「母親学」というテーマでのインタビューか何かだと思うのですが、「子ども目線」の支援の必要性から、おむつなし育児、そして最後に語っておられたのが「『無償の愛』は子から親へ与えるもの」・・・私もまさに三砂ちづるさん同様に「子ども目線」の支援の必要性を痛感しているところなのですが、これに関しては私が論じる資格がないといいますか、色々とややこしい問題が浮上すると思うので興味のある方は三砂先生の文章をお読み頂ければと思います。それとは別に私が涙したのは、「『無償の愛』は子から親へ与えるもの」で語られておられた「ゆるし」ということでした。

愛してやまない故マイケル・ジャクソン(筆者は同い年である)はオックスフォード大学における講演で、「無償の愛は、子供から親にむけて与えるものです。そうすれば、親もどのように子供を愛するか、を学ぶことができます。世界は、そのようにしてこそ、愛に満ちたものになるのではないでしょうか」と言っている。
 (中略)
 子供を持つ、とは許されることを知ることだし、親になることは許されることを学ぶことだ。できれば、少しでも子供たちがつらい思いをしないように、親として精進できることはしておきたい、とおろおろ思うばかりである。


何度読んでもうるうるしちゃいますね。
ていうか、今までよく知らなかったけれど、マイケル・ジャクソン、すごい。

そうなんですよね。親は、こどもに許されているんですよね。どんな親でも、子どもは親を愛し慕い、許している。時々「すぐに怒ったり、あんまり遊んであげないで邪険にしたりするけれども、それでもお母ちゃんがいいの〜?不思議やなぁ」と思うくらい、どんなに楽しいことや嬉しいことがよそであったとしても、それでも「お母ちゃんがいちばん。退屈だって、おかあちゃんのそばにいたい。」という様子の子ども・・・それは何も私と子どもの関係が良好であるからではなく、例えばひどい虐待を受けたりしている子どもも同じように「それでも、お母さんがいい」と言うのだそうです。これが「愛着の形成」というもののすごさなのか、何なのか・・・しかしよく考えてみると、このような形の「ゆるし」というのは、「圧倒的な(絶対的な)弱者」からしか、与えてもらえないものなのだろう、と思うのです。もしそうでなければ、きっと「こんなお母ちゃんなら、ボク、いらんわ」と言われてしまう。でもそうではないから・・・そうは、言えないという弱い立場だからこそ・・・どんな親だろうと、許される。そのような意味において、無償の愛は「子どもから親へ」与えられるものなのだ、というのは「胸が苦しくなるくらいの」厳然たる事実なんですね。

でもここでマイケル・ジャクソンがえらいのは、「そうすれば、親もどのように子どもを愛するか、を学ぶことができます」と続けていることではないでしょうか。子どもから無償の愛をもらって、親はそこから「愛し方」を学ぶ・・・そう、言っているのですよね。つまり、「学ぶしかないのだ」と。そこには、「(自分の)子どもなのだから、愛していないはずがない」という無自覚さも、「母性なんていうものは、幻想だ」というような諦念も、入り込む余地はありません。実のところ私たちは、「子どもが親を愛してくれるようには、親は子どもを愛することはできない。しかしながら、子どもから愛し方を学び、そのような仕方で子どもを愛していくことができるようでありたい。」と願い続けるよりほかないのですね。

子どもは、私を許してくれているんだなぁ・・・そう思うと、本当に涙がポロリとこぼれ落ちそうになります。わがままばっかり言って、思い通りになんて絶対にならないし、あっちこっちに振り回す「たいへんな」存在。気がつくと親の私が「被害者」面していたりするのですが、そうじゃないだろ!と突っ込みをいれなくてはなりません。そうじゃなくて、私は子どもに許されて(ここに)在るんだ。そのことを、忘れてはいけない。そしてもちろん許されているからそれでいい、ということでは決してなく、許されているから「こそ」許してくれている人に最『善』を尽くす義務があるのだな。そう思います。こうなってくると神との関係に殆ど近くなってきますが、子どもは皆「神の子」とされるのも頷けますね。

そして三砂さんの「親になることは許されることを学ぶことだ」・・・子どもを持って初めて、許されるということがどういうことであるのかを知り、それを知った上でそこから学んでこそ「親になる」のだな、と思います。許されて在る、その在り方を学ぶ。あぁ私もオロオロしてしまいますが、出来る限りのことはしたいと心から思います。

「子ども目線」の支援の必要性
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/091104/trd0911040805001-n1.htm

「無償の愛」は子どもから親へ
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/091118/trd0911180800001-n1.htm