早寝、早起き、朝ご飯に異議を唱えません

泣き泣き向かう、幼稚園。
「これはもしかして、ずうっとお母ちゃんなしで幼稚園に行かんならんのか?」ということにようやく気づいたのか!?週明けの幼稚園通いは、涙涙の毎日です。かわいいなぁというか、胸がきゅんとするのは、「こ初々ちゃん、今日は泣かないよ。元気にいくよ。」なんて言っていても、いざその場になると「うわーん。幼稚園行きたくなーーーい!」と泣き始めるんですよねぇ。私は今まで「泣く」というのはどちらかというと、泣いてやるぞ〜という「意思表明」の手段に近いのかと思っていたのですが、「泣かない、泣かない・・・でも泣けちゃう〜!!うわーん。」という、泣きたくなくても泣けちゃう感じ、いわゆる感情失禁に近いんだなぁと切なくなります。まぁとにかく、もうちょっとで「楽しく輝く時間」を味わえるよ、頑張れ、こ初々さん!

ところで幼稚園が始まる少し前から、おとなも含めた生活改善を実施しています。まぁ基本が怠惰なので、以前にも書きましたように「起きたよう、寝たよう」な私なのですが、これでは幼稚園生活にいかんと思い直し、まずは「早寝、早起き、朝ご飯」から。もうお昼寝をしなくなったこ初々さんは、9時にはこってんと寝てしまい、朝は6時半〜7時に起床。「お昼ねしないのに、睡眠時間がたったそれだけ?」とびっくりされる方も多いかと思いますが、もともと睡眠時間が短いこ初々さんなので、トータルで平均9時間半くらいなんですよね。一方私は「睡眠たっぷり派」なので、こ初々さんより早く起きようと思うとせめて11時には寝たい。というわけで、基本は11時就寝、6時〜6時半起床、7時朝ご飯ということにしたのですが、うーむ、完全にはもちろん守れず。寒いし、起きるのが7時過ぎちゃうんだよね。気合いが足りーん・・・でも、夜ご飯を家族そろって食べることができない日が多いので、朝食の時間はとても貴重です。オットも早起きしなくてはいけないのが、かわいそうなところなのですが・・・しかし考え方を少し変えてみると、子どものおかげでよい生活リズムを作ることができるのですから、ありがたいなぁと思うんですよね。

ところがこの「早寝、早起き、朝ご飯」運動に異を唱える人々もいらっしゃるようで、少々びっくりいたしました。「正しいことを国の施策として押し付けられたくない」と嫌悪感を示される方や、「ライフスタイルの多様性を尊重しろ」という自由と権利の主張をされる方、または「早起きが体質に合わないんだ」と言われる方やら・・・まぁそれぞれに「もっとも」ですし、例えば職業上それが出来ない人たちがいることも、夜勤を経験した看護師なので分かりますし、基本的には副交感神経優位な体質なので朝がつらいということだって実感として分かるのですが・・・なんというか「それはそれ、これはこれ、だよなぁ・・・(ため息)」と思ってしまうのは私だけでしょうか。個人として「できる、できない」、「合う、合わない」はそれぞれにあるのでしょうけれども、「総合的に検討して、個人と社会の健康(と存続)のためにいいと判断されることを、それぞれが、それぞれの出来る形で努力する」というふうに考えることは出来ないのか?、と思うのです。そしてそれが職業上の理由、経済的な理由などで出来ないのであれば、「でもそれが可能なかぎり出来るような社会になるよう、リソースを配分していこう」という方向へ持っていかなければなりませんし、そう考えていかなければ社会の仕組みはなにひとつ改善していきません。「それを出来ない(したくない)自分」を正当化するために・・・つまり自分至上主義で「そんなもんはいらん」と言うことって、大人はできないと思うんですよね。もちろん、「それはいいことだけれども、うちの事情でこうしてまーす」というのは我が家を含めてあっていいのですが、それが「我が家の権利と自由」として主張されると「それは違うだろう」と、それこそややうんざりして思ってしまいます。まぁ百歩譲って権利の主張は認めるにしても、「ところで義務は果たしているのか?」と問われても致し方ありませんよね。

さらにそのような主張をされる方が健康増進法を引き合いに出され、「病気の予防や健康の維持、増進に努めるのは国民の義務である」という趣旨の文面に批判的な意見を書かれていたのですが、「そこに異議を唱えるなら、おまえ、保険料倍払え!」と悪態をつきたい気分にさえなりました。誰が何と言おうと、それは国民の義務なんです。私たちの身体と健康は、個人にだけ属するものだと思ったら大間違え。自分の身体だけれども、自分だけのものではない。それは、私たちが病気になったら家族がそのお世話をしなくてはいけないという意味においても、また国民皆保険制度の我が国において医療費を出すのは個人だけではなく国民みんなであるという意味においても。ですから「オレは病気になっても誰の世話にもならないし、保険にも入らず自分のカネで払うぜ」というのであれば話は別ですが、そこまでの覚悟をして「一人で生きていきたい」自由人など殆どいないでしょうし、たとえいたとしてもそれが人間の幸福につながるとはとても思えませんから、「相互扶助」という仕組みを人間は作っているのです。その相互扶助をベースにした場合、健康というものは「個人が可能な限り努力して守るもの」になりますし、それでも病気になった場合は皆で支え合いましょうということが基本になります。ですから健康の維持増進は「国民の義務」であるというのは、それはその通りなんです。

とはいえ、私たちはそれを「義務」と認めつつも、「そうもしていられない」ことも多いですよねぇ・・・私なんて禁断の「チョコレートどか喰い」とかしちゃいますし、ビールだってたっぷり飲んじゃうし、夜な夜な読書にいそしんじゃうことも。子どもを親の都合で夜遅くまでひっぱりまわすことだってありますし、「これはあんまりよくないだろう」と思われるような食べ物を与えることだって少なからずあります。そこをつかれると痛い・・・でもね、そこで「申し訳なさ」を感じて「ちょっとは気をつけよう(でもたぶんまたしちゃう)」というのと、「オレの自由だ」と言って開き直るのは違うと思います。結果(不健康)は悲しいかな、同じかもしれませんが、人と人との間に生きる「人間」としてのあり方は自分自身に問うていきたいなぁと思っています。

追記
確かに「早寝、早起き、朝ご飯」が「学力アップ」なんかと結びつけられて語られることへの批判もあるのでしょうけれども・・・ただ私はこの手の議論においても、「それはそれ、これはこれ」と考えています。なんというか、「早寝、早起き、朝ご飯」と「その効果」の因果関係は学問的に、科学的に検証されていってもいいのですが、その検証を個人がどう受け取るのかということはまた違った次元の話なんですよね。それらを「直線的に結びつける(=鵜呑みにする)」ことしかできない知性だって、問われてしかるべきだというふうに思います。「あぁこういう手法で研究された結果がこうなのね。だったらよい点は取り入れよう。(あんまり信憑性はなさそうだな。ということも同時にあり)」と考えていける知性を求めていかなければならないわけで、「早寝、早起き、朝ご飯」が学力アップと無関係であると一蹴することも、それらが直線的に結びつけられるものだというふうに信じること(そしてそうしなければならないと強迫的になること)も、どちらも同じレベルであやうい、と思います。つまりは自分の頭でものを考えることができるかどうかが鍵となるわけで、「早寝、早起き、朝ご飯」が悪いわけではないんだよね。そんなふうに思っています。目の前の子どもが機嫌よう毎日過ごすことのできるリズムはどうなのか、そのために(様々の事情がある)家庭で出来ることはなんなのか・・・「学力アップ」ということをひとまず置いておいて、「そこから」物事を考えていける品性というものが問われているのだ、と思います。