チョコレートの背景にあるものに

ドキドキの幼稚園・・・木曜日から元気に頑張って通っております。「時間いっぱい泣き続けるかな」というこちらの予想よりはずいぶん泣くことなく、登園して30分くらいは先生の胸で思い切り泣き、その後は気持ちを奮い立たせて遊びの輪の中に入っていけたそうです。その事実を先生から伝えられたとき、やはり安心しました。初めて親から離れて集団に入っていくという経験の中で、「不安、寂しい」だけでいっぱいにならず、先生がたに見守られながら自分の力で一歩を踏み出せたのですから。泣く/泣かないというのはその子どもの表現方法の一つにすぎませんから、それにこちらが一喜一憂せず、子どもが自分の感情や体験を「声にならないメッセージ」としてどう伝え表現しようとしているのか・・・それらをくみとれる「聞く耳」「見る目」を持ちたいなと思っています。ええ、私自身が子どもの背を押し続けるためにも。安心して行っておいで!お母さんは必ず迎えにいくよ!かなりこちらもやせ我慢ですが、そんなふうに「どーん」と構えているポーズをみせています。

さてこ初々さんは幼稚園に通い始め、私も少しずつ勤務を増やしています。ここのところ職場は人手不足のため、不慣れな外来診療の介助に入ることが多くなっているのですが・・・これまでとは違い、患者さん本人だけでなく、ご家族の人に会い、お話を聞く機会がぐーんと増えました。それは「患者さん+ご家族」というケースもあれば、「患者さん本人は(病状のため)来られない、もしくは(病状のため)来たくないのでご家族だけ」というケースもあります。ここが精神科と一般科の違うところだと思うのですが、見かけ上「本人よりも、家族が困っていて助けを求めている」場合が少なくありません。そういうご家族のお話を聞いていると、時々「み・・・身につまされる・・・」なんて思ってしまうこともあるんですよね。それはどういう時かというと、子どもさんの要求の言いなりになってしまって振り回され、「いったい、どうしたらいいんですか」と途方に暮れている親御さんのお話を聞いているとき。その「子どもさん」はもちろんもう成人していて、いいおじさん、いいおばさんになっているような人たちなのですが、話を聞いている限りにおいてはほとんど、今私が一緒に暮らしている2歳児と一緒。姿形はきっとおじさんおばさんでしょうが、要求の出し方(つまりはコミュニケーション能力)の面においては2歳児とそう違わない。親に対して「ああしろ、こうしろ」と要求が高く、それが叶わないと暴力をふるう、暴言を吐く、困った行動をとる。ただただ話を聞いていると、「もういい大人なんだからさ、ほっとけば?何でそんなに子どもの言いなりになってなくちゃいけないわけ?」とうんざりするような話なのですが、うーん、でもねぇ・・・ふと目の前にいる2歳児をに目をやってしまうと、その「放っておけなさ」が分かるような気が、するんですよねぇ。それはもちろん、「ぎゃーって言っているのに放っておけないよ」という面で「分かる」というのもありますが、「ぎゃー!」となる場面に対応するのが面倒で、それを回避するための「放っておけなさ」も同時に分かっちゃう「ものぐさ」な私なのです。ですから一体今までにどれだけ「面倒な場面を回避するための一時しのぎな」対応をしてきただろうか・・・という反省がふつふつとわき上がり、「身につまされて」しまうのです。こういうことを続けていくと、中身2歳の30歳、40歳の大人になってしまう・・・とまではもちろん思いませんが、やはり「それとこれとは、全然関係がない」とは言えないよなぁ、と遠い気持ちになるのは否めません。

例えば子どもを連れて礼拝に出るようなとき。こちらはひたすら「静かにして欲しい」と思ってしまいがちです。まぁそこまでではなくても、「この時間をどうしたらやり過ごせるか」ということに、私は意識がいってしまっていました。そんな時に手っ取り早いのが、お菓子。礼拝中に食べるおやつを持たせて、好きなようにさせておく。しばらくはそんなふうにしていました。しかしつい最近、いつも通っている教会ではない教会の礼拝に出席する時に、「さすがにお菓子を持たせるのは・・・」と周囲の目を気にして何も持たずに行ったのですが・・・ひとつ前の席に座ってくれたのが保育の先生で、かばんの中からかわいい付箋紙やキャラクターつきのボールペンなどを次々に出してくれ、お絵描きをしたりお人形さん遊びをしたりで「本人なりに楽しく」礼拝を過ごしていたのです。その時あら、と思いました。「お菓子がなくても、全然大丈夫なんだ」と。こちらが「騒がれても困るし」ということで予防線をはって、先回りをしておやつなんて与えなくても、「一緒に大切な時間を守る」力がすでに備わっていたのだ、ということに気づかされたのです。別にお菓子を与えること自体が悪いことだとも、間違っていることだとも思いませんし、「いざ」という時のための魔法のお薬みたいに使うことは度々あるものだとおもいます。しかしこちらの言う事を聞かせるための手段としてそれを頻繁に使うことの弊害は、こういうところに出てくるんだ・・・つまり、「本当に要求していること(この場合、退屈であるとか、親の関心)はお菓子ではないのに、お菓子を与えられることで、まるで初めから要求はお菓子であるかのようになってしまって、礼拝になるとお菓子を要求する、もしくはお菓子がないと礼拝を守れなくしているのはほかならぬ親であるということ」・・・そのことに気づいて、ヒヤリ、としました。それ以来お菓子を持たずに礼拝へ出席したり、クリスマスコンサートを聞きに行ったりしていますが、「あなたのことを気にしているよ」という暗黙のメッセージを送りつつ(子どもの話をちゃんと聞いてやる、その場で静かに遊べる工夫をしてやるという具体的な態度ももちろん込みです)、それでも「おかあさんはこの時間を大切にしているんだよ」という態度を示すことで、子どもは子どもの持てる力を最大限使って理解してくれているように思います。時々思い出したように「なんか食べたい」と言いますが、きちんと「今はないよ」と穏やかに伝え、気持ちを紛らわせてほかの遊びに誘ってやれば、お菓子に固執するようなことが少なくなったようです。それでも「じっとしていられない」のであれば、もうそれはその子どもの限界を超えているのでしょうから、子どもと一緒にそっと席を離れればいいだけなんですよね。でもこれまでの私は、そのことが分かっていませんでしたし、それが出来なかった。やはり「自分のしたいこと」や「周囲の目」が先だってしまって、子どものことは「なんとかやり過ごせれば」と思ってしまいがちなんですよね。でも大切なことは、「この時間をやり過ごす」ことではなく、「お母さんにとって大切な時間をあなたと一緒に過ごしたいんだ」という気持ちを伝えることなんだなぁ・・・その気持ちがなんとなく伝わって、「これは大切な時間なんだな。あんまり騒いだりなんだりする時間じゃないんだな。」と自分の力で理解してくれたら・・・そう願いながらも、それでも子どもにとっては退屈きわまりない時間を子どもなりに「楽しく」過ごせる工夫をすることは、「いつもお菓子を与える」よりもずっと手間ひまがかかりますし、保育のプロでもないので「ネタぎれ」になることも多々あるのですが、出来るときに出来るような形で、少しずつやっていければいいかなぁと思っています。子どもの発達段階によってずいぶん違うのでしょうが、みなさんの工夫も教えて頂ければ嬉しいです。

そうしてやはり思い出されるのは、子どもが多様な要求をしているというのに、「チョコレート!」と言われればチョコレートしか差し出せないという、先の親御さんたちの姿です。(多くの場合チョコレートは「カネだせ」になっていますが)そこまで大人になってしまうと、チョコレートの背景にあるものを差し出しにくくなってしまうものですが(「チョコレート」はたいていの場合「あなたの愛情」というか、「関心をくれ」ですからねぇ・・・ぎゅうっと抱きしめる、とか簡単に出来なくなりますよねぇ)、まだ小さい子どものうちには差し出せる形が多様にあります。そして子どもも、チョコレートではなくその背景にあるものを素直に受け取る力を持っているのです。(大人になると、これまた素直に受け取りにくいですよねぇ・・・もうチョコレートが最初からの要求であると思いこんでいる、思い込まされているという構造になってしまっているのですから。)そうした子どもの実に素晴らしい力を信じて、チョコレートの背景にあるものに積極的に働きかけていけるようでありたいなぁと思っております。