幸福な妄想

い・・・いそがしい・・・
割とのんびり夫婦ですので、あんまり色々なことが重ならないようにこれまでやってきたのですが、今はどういうわけか重なりまくりです。オットは仕事が忙しいですし、私の勤務と仕事も増え気味、年明け早々に始まる幼稚園の準備、そのひとつの通園グッズ制作、家の建築計画(いちばん滞っているような気が・・・)、年末の家事(特に家計簿の移行が大変なのだ!)、クリスマス会たち(なんだか教会にずっと行っているような・・・)、えーとその他もろもろ。もともとキャパシティが小さいので、やりくりが大変です。
まぁそんな中でも、通園カバンを作ったりするのは楽しい作業です。いや、楽しめることが奇跡と言っていい感じでして(笑)、もともとお裁縫は苦手中の苦手。「手を動かして何かを作る」ということの喜びは感じるのですが、うーん、大雑把な性格が災いしてか、ミシン仕事をすると必ずどこかで失敗して泣くことになるのです。「泣く」というのは比喩でも何でもなくて、本気で涙流してボロボロ悔し泣き。で、ミシン仕事って、失敗を挽回できるときも大変ですが(縫い合わせちゃったものをほどくことほど嫌なものはない。だいたいここで涙が出てくる。)、「生地の切り方を間違えて、もうどうしようもない」なんて致命的なミスをすることもあるぢゃないですか。(え、わたしだけ?クリスマスの靴下を縫うのに、2枚とも同じ方向を向いた生地を裁断してしまったのは!!!)そうなってくるとミシンをひっくりかえして、生地を投げ出して、「うわーん」と泣きたくなる、隠れ(全然隠れていないけど)負けず嫌いのわたし。なので私がミシン仕事をいそいそと始めるときには、きっとオットもドキドキしているはず。「あ、また初々さん泣かんなん。(近づかんとこ)」と思っているに、違いない。
それでも懲りずにミシン仕事をするのは、「苦手だけど、好き」という矛盾した状況にうっとりする・・・というわけではありませんが、それでも「自分の手で作る」ことの喜びが大きいからだと思うのですよねぇ。大変だからこそ、完成したときの喜びも大きいですしね。またこれが自分のために作るよりも、誰か別の人のために作るほうが、圧倒的に幸せなのが不思議なところ。以前に義母に割烹着を作ったときにも「おばさま仲間で集まったときにこの派手な割烹着を着て頂き、『それおしゃれやなぁ。どうしたの?』なんて聞かれて喜んでくださっている姿」なんかを妄想してニヤニヤしながら作りましたし、子どもの場合はもっと直接的で「この色のスモッグは絶対似合うはず!」と妄信して作っていますから、なんというんでしょうか、「手を動かしながらそんな幸福な妄想にひたっている」んですから、楽しくないはずがないんですよね。(相手に迷惑でないことを願いたいですが。)それにしても、結婚した頃は「中学校の家庭科レベル」さえ怪しかった私の裁縫能力だったのですが、「カーテンを縫いたい」とオットにミシンを買ってきてもらって(オットがミシンを選んで買ってきてくれたんです、文字通り)、「カーテンだけ縫ってもうミシンは使わないのではないか」というオットの危惧を裏切って、ちょっとずつ裁縫能力を積み上げてこれた(といっても、割烹着縫うくらいまで)おかげで、通園グッズ作りにはそう困らずにすんでいます。どんな能力が生活に必要になってくるのか、やってみないと分からないということ、たくさんあるんですねぇ・・・「それが将来自分にとって必要になるかわからないものを察知して拾い上げる能力」というようなものの大切さを内田先生は説いておられましたが、裁縫能力もそんなかっこいい能力が為した結果だったと、思いたい、けど違うだろうねたぶん。だって作らずに買ったっていいわけですし。でも今回子どものカバンを縫いながら自分のカバンをしっかりと観察して、「へぇぇ、カバンってこういうふうに作られているんだなぁ!知らなかったわ〜」と感心し、身の回りのものでもどのようにして作られているか知らないことってたくさんあるのだなと改めて気づきました。別にそんなことを知らなくても今は生活上差し支えないのですが、「身の回りのものがどのようにして作られているか知り」、「いざとなったら自分で作れる(かも!)」と思えるのは、なんというか生活するうえでの安心になるものですよね。まぁ安心まで言ってしまえるかどうかは分かりませんが、お金をむやみに信奉しないですむことには役立つような、気もしないでもありません。まぁそんなのは「手でつくること」の二次的な効果であって、本質ではないのでしょうけれども、願わくば「いざとなったらモノがなくても、工夫してやりくりできるぜ」という自信を生活の中で身につけたいなと思う今日この頃です。・・・散漫な内容になってしまって申し訳ありません。これってどんな着地だ?