ゴンタっぷりから

どういうわけか、波のようにやってくる「ゴンタ期」。只今ゴンタ絶好調のこ初々さんです。以前にもお話しましたが、そのゴンタっぷりはほとんどよそでは見せません。ええ、ええ、よそでは「かしこくて、おとなしいこ初々ちゃん」なんですが、ひとたび「ゴンタ」に火がつくとすごい、すごい、その暴れっぷりやいかに。先日はおそとで遊んでから帰宅し、手洗いを促しましたがただちに自分の遊びに入り込んで拒否。「おてて洗わないと、DVDは見ないからね。」と言うと「いいもーん」とか何とか言っちゃって、ぜんぜん手を洗う気配なし。そしてひとしきり遊んだあとに「ピーピ(DVD)みる〜」とやってきたので、「帰ってからすぐに手を洗わないひとは、ピーピは見られません。」とにべもなく告げると、うわーーーーん!!それからはもう、近所じゅうにとどろく大声で「ピーピみる!!!!」と泣き叫び、地団駄を踏み、両手がまっかっかになるほど地面を殴り続け、母をたたき、宅配で届いた野菜を次々に投げつけ、挙げ句の果てには野菜をむしりとって自分の口の中につめこみ・・・おお、派手やなぁ・・・プチ家庭内暴力や・・・とこちらが呆れるほどの、暴れっぷり。これと同じことを思春期にやられたらたまったものじゃありませんね。なんとしてでも「反抗」の表現として暴力ではなく、別の成熟した手段を獲得してもらわなければ困るぞと思ってしまいます。そして野菜を投げたときにはお手てをぺちんとたたいて「いけません」と叱るのですが、そのたびに「痛い〜!!!!ぎゃ〜!!!!」ですから、虐待だと通報されてもおかしくないほどです。そんなのを1時間くらい続けられるのだから、本当に根性がありますよねぇ。・・・って私もそれを聞いていられるのだから根性があると誉めてもらいたいくらいですが、まぁそれは大人ですから、ね。というか、ほんまに「親」役割のおかげでして、こんなことにいちいち感情的に巻き込まれていたら大変です。とにかくこちらは常に冷静に、声のトーンは変えず、「だめなものはだめ」と言い続ける。結局泣き止んだのは、ご飯のしたくをすませた私がひとりで「いただきまーす」と食べ始めたときで、「ごはんたべたーい」とやってきたので平和なご飯タイムへ移行したのでした。しかしながらその翌日も同じことで大暴れし、今度は夕飯を作っている私の足にへばりつき、「ごはん、食べない!!ごはん、捨てて!!!」の連呼ですよ・・・とほほ。「そんなこと言われたら、おかあさん残念やわぁ。」とか何とか言いつつ、またしても1時間ほどが経過してしまったのでした。うむむう。そして今なお「手洗い」の攻防戦は続いているので、「手洗いできるわたしはお姉ちゃん♪」作戦へ移行しようかと検討中です。まだ検討中なのでどうなるかは分かりませんが、手を洗ったらお帳面にシールを貼っていき、シールがたまったら「幼稚園に行けるお姉ちゃん」として「通園グッズ」をひとつひとつ手渡ししていってみようかしらなんていうことを考えています。子どもにとって大切な、「憧れ」を機能させるっていうことですね。そしてそれが「2歳のわたし」の誇りになったらいいのですが。

・・・ということを書いて数週間が経過しましたが、なんと「お帳面にシール」作戦が劇的に効いて、あっさりと「手洗いのすったもんだ」がなくなってしまいました。ちょうどその頃に私の勤務先で患者さんたちによるイベントがあり、子連れでビンゴゲームに参加したら「お帳面」がもらえたんですよね〜。おぉグッドタイミング!とホクホクで作戦開始すると、自発的に手洗いするまでには至りませんが、声かけですぐに手を洗えるようになりました。それも「通園グッズ」のことはまだ引き合いに出さず、ただただ「手を洗ったらお帳面にシールを貼ることができる」という特典のみで動機づけが可能となっております。

このことから考えられることは、まぁやっぱり反抗期真っ盛り、「親の言うことを素直に聞いてなるものか」という意地?があるのだろうなと思います。そして2歳の子どもに「手洗い」の必要性なんて理解できませんから、動機づけも薄いですよねぇ・・・「手を洗わないと、風邪ひいちゃうよ」と言ったって、「かぜをひく」ということさえ分からないでしょうし、「お熱出てしんどいよ」だって(あんまり熱を出さない我が子にとっては)実感が伴わない。そうして必要性のないところに、無理矢理手洗いをさせられている(←こどもの実感)のは納得がいかないっていうのも、頷ける話です。でも、その立場上の辛さはじゅうじゅう分かってやることができても、「せんなんことはせんなん」。結局この時期の子どもに対しては、せんなんことの必要性を噛み砕いて説明すると同時に、「それが本当に理解できているか」ということは置いておいて、「そのことが楽しい」とか「そのことができるのが誇りだ」とか「その先に楽しみが待っている」というふうになるよう大人が環境を調整してやることが大切なのだなぁとしみじみと思います。それは大人のリハビリテーションだって同じことなんですけれどもね。例えば今現在歩けない人がただただ「歩けるようになる」ことを目標に歩行訓練を続けていくのはしんどいですが、「歩いてこういうことがしたいんだ」ということがあったり、日常生活の中に楽しんでできることがあったりすれば苦になりにくい。まぁとにかく「必要性を理解して正しい目標に向かって地道に努力」すればいいという話ではなくて、「必要性」はあくまでも働きかけるこちら側にあるものと思って、「楽しみながら、気づいてみると目標達成」を目指すのがいいのではないかと思っています。

いやしかし、「親の言いなりになってたまるか」という2歳児、なんと私の言うことは聞きませんが、「タイマー」の言うことは聞くんですよ。最近は遊びに集中力が出てきて、遊びを切り上げて次の日課に誘うのが非常に困難・・・「お風呂入るよ〜」と言っても全然言うことを聞いてくれないので、それならば、とタイマーを持ってきて「これが『ピピピ〜もうおしまいですよ〜』って言ったら、お風呂入ろうね。」と持たせると、タイマーを自分で切ってお風呂に入ると言うじゃないですか。苦肉の策が成功したんだから喜ぶべきかもしれませんが・・・「おいおい、何でタイマーの言うことはきけるねん!」と思ってしまう私の心は狭いのでしょうか。

でもね・・・もっと言ってしまうと、「私の言う事を聞け!」と言い続けることに私は非常に厳しいものを感じつつあります。いやもちろん、年がら年中「私の言うことを聞け!」なんて言っていませんけれども、何かを促すとなると結局メッセージとしては「私の言う事を聞け!」になるんです。それが、たとえ親という役割をかぶっていても、しんどい。「(親である)私自身」が規範にならなくてはならない、というのが、しんどい。当然、日課なんていう枠くらいは規範になれますが、もうちょっと込み入ったところになると(2歳ともなると、だいぶ込み入ってくるものですよね)、「『わたし』が、『こうしなさい』と言っている」と言うのが非常に苦しいんです。つまり、たかだか人間である私が「こうしなさい、ああしなさい」と言うところの規範を、自分の内部に見ることが、やっぱりできないんですよ。「そんなものは、『わたし』の中にはない」と思ってしまう。そうなってくると、「神さまに喜ばれることをしようね。」と言える(信仰を持つすべての)人が羨ましくなってしまいます。そう、私はとても「私に喜ばれることをしようね」なんて言えないのですが、でも「私の言う事を聞け!」って結局そういうことでしょ?と自分を責めてしまうのです。そう、あるとき子どもが全然言う事をきかず、「おかあさんの言うことをききなさい!」と思わず言ってしまったことがありました。その後しばらくして子どもが泣き叫ぶのをやめて落ち着き、私も笑顔で「えらかったね」なんて言っていると、「おかあちゃん、笑ってるの?」と子どもが聞きました。私が「そうだね、笑っているよ。」と答えると、子どもは「言うこと聞いたから?」と聞いてくるんですね・・・これには正直、絶句しました。心底、参りました。私は子どもを裁いているのだろうか?子どもを思い通りに動かしたいのだろうか?思い通りになったら受け入れ、そうでなければ認めないという振る舞いをしていたのだろうか?いや、言う事をきかせたいのは、自分の思い通りにしたいからではない、はずだ。子どものことを思って、そんなわがままを言ってはいけないよ、ということを伝えたかったから、だったはず。しかし目の前の子どもは、現に「『おかあさん』に喜ばれる」振る舞いを理解した、と伝えてきているではないか。違う、私はそんなことを求めているのではない。じゃあ『誰』が承認すればいいのだ、あるいは『何』をもってよい行いとする、その規範はどこにあるんだ?『誰』が悲しむからそんなことをしてはいけないよと言えるのだ、私以外の「誰」が・・・そう考えていくと、信仰なく子どもの前にたつことが、だんだんと厳しいものになってきています。

思い返せば私は職業につくとき、「これから私は自分のためではなく、患者さんのために働くのだということを、自分以外の誰かに誓いたい」と思い、クリスチャンの友人に教会に連れていってもらったことがありました。人の命を預かる職業、弱い人に寄り添う職業であっただけに、常にミスと隣り合わせであること、権力を行使してしまう可能性を持つことへの、恐怖心があったのだと思います。間違いをおかしてしまったとき、弱い私は隠してしまうかもしれない。弱い人の事情より、自分の事情を優先させて仕事をしてしまうようになるかもしれない。そんな時に、「わたし」なんていうものは何の役にも経たず、「誰かがみている」という、その「視線」が必ず必要になるはず・・・私はほとんど直感的にそう思っていました。残念ながらその時に信仰を持つことができず、その「視線」の必要性だけをひしひしと感じながら仕事をしていたわけですが、それは子育てをしている今も全く同じなのですから、おかしなものですね。

そういえば最近たまたま手にした雑誌の記事に、「ミッション系の学校に人気が集まっている」とあり、取材を受けたミッション系の学校の先生が「今の日本には、お天道様が見ているよ、というようなものを必要だと感じる人が増えているのでは」とおっしゃっていましたが・・・たぶん私も、次元は違うかもしれませんが、同じような構造にはまっているのだろう、と思います。

・・・なんて話がだいぶそれてしまったうえに、苦しい告白で終わっていいものか分かりませんが・・・日に日に人間として成長していく子どもを前にして、私も転機を迎えているのかなぁと思ったりしています。

追記
書くまでもないかもしれませんが、「子育てをするうえで信仰は必要だ」ということを普遍的なものとして主張しているわけではありません。あくまで「私個人が」そのようなものを必要とするようになった、その心境について書かせて頂きました。かつてクリスチャンの友人に、「信仰のない人が、どうやって生活をやりくりしているのか分からない」と言われたことがあり、そのときは全くぴんとこなかったのですが、今私は「どうやってやりくりしよう」と途方に暮れている、そんな感じでいます。