人見知りだなんて言わないぞ

「人見知り」
だなんて言えない。最近強くつよくそう感じております。かく言う私自身が相当な人見知りなのですが、それを(自分に対しても、他者に対しても)言い訳がましく言うことを(かなりの努力を要しながらも)自制しているんです。まぁそれは糸井重里さんも「人見知りだなんて言うのは、会費を払わないでメンバーだと主張しているようなもの」とおっしゃっており、常に「耳が痛い、耳が痛い」と思っていたのですが、子どもが生まれてからはそうとばかりも言っておれないということが段々と分かってきました。そう、コミュニティの中で積極的に自分の役割を果たすためには人見知りだなんて言って甘えてちゃあ、なーんにも出来ないんですよね。苦手だろうと、性格的に厳しかろうと、きちんと上手にコミュニケーションをとらなければ、自分の果たすべき役割は果たせない。この「きちんと上手にコミュニケーションをとる」ことが、まさに会費を払うことなんだということに最近気づき、「糸井さんてやっぱりすごい表現力だなぁ」と改めて感心いたしました。

これまでのお友達づきあいとは違い、子どもを通して知り合う方々は「子どもがいる(あるいは、関わりがある)」という接点だけが「きっかけ」になることが多く、その方のバックグラウンドや人となりというのはおつき合いの始まる当初は全く分からないと言っていい。それでも共同で作業をしたり、あるいは助け合ったりするためには、「相手を分かろうとする努力」と同時に「分からないながらも、コミュニケーションをとりながら一緒に取り組む」ことが求められます。これは正直なところ、狭いコミュニティの中でしか育ってこなかった私には新鮮であると同時に、おおいに「ハードルの高い壁」。もちろん病棟勤務で鍛えられた「チームワークで仕事をする能力」に支えられて出来ていることも多々あるのですが、それでも「ぱっとそこに入って、自分の役割を見つけ、その場のミッションに貢献する」というのはまた、違う能力〜全体を把握し、自分の役割を見つけるための、(未知の人たちとの)濃密なコミュニケーション能力〜が必要なのだということに気づきました。例えば私などが自主保育のお台所に入ると、「何したらいいんだろう・・・」なんてオロオロすることもあるのですが、そういう時も「人見知りで」なんて甘えたことを言ってはいけない。「今、何がおこなわれ、自分には何ができるか」ということを明確にするために、適切な人に適切な言葉づかいですぐさま尋ねなければなりません。もちろんこんなことは当たり前のことで、よく知った人同士であったりお友達同士であったら気軽に尋ねられることでしょうけれども、「名前もよく知らないベテラン主婦たちがてきぱきと働いている」ところに入っていって自分のすべきことを見つけるまでコミュニケーションをとるということは、人見知りな私には相当勇気がいりました。そしてもちろん今でも「苦手」ではあるのですが、以前の私と違うのは「苦手なままでいい」とは決して思わないということ。人々が支え合うコミュニティを大事にしたいという気持ちもありますし、そのコミュニティの運営に可能な限り貢献したいんですね。しかし今の自分の(コミュニケーション)能力では、よりよい形での貢献ができない。ならば自分が成長し、コミュニケーション能力を高めなければならないのだ。そういう思考過程を辿ることができた。これは、私にとってはものすごく幸福なことだと思っているんです。「人見知りな私のままでいい」と成長を(自ら)止めていたところを、「貢献したいコミュニティがあるから、成長したい」と願える場所に出会ったということなのですから。

そしてそれは、「子どもを育てる環境」についても等しく言えると思います。来年度から通う幼稚園の先生には、「子どもの送り迎えは毎日のことだし、大変だと思います。でも近所の方に頼んだり、お母さん同士交替で送り迎えされておられる方もたくさんいます。『そうやって、上手に助け合っていってくださいね』」と言われたことを思い出しました。そう、きっと「一人で頑張ってできる」ことが大切なのではないのですよね。誰かに頼りたくないから、頼られたくないから、コミュニケーションをとるのが面倒だから・・・そうやって「孤立して頑張る」のではなく、「出来ないことは、みんなで出来たらいい」。しかしそのためには、本当に上手にコミュニケーションをとって、支え合う環境を作らなければならないんですね。きっと子育てという「自分ひとりでは出来ないこと」を与えられたおかげで、私はまた今までとは違う能力を鍛えることができるのでしょう。こうして「成長し続ける」ことができるのは、本当に有り難いことだなぁと思います。そしてきっと「支え合う環境」こそが、子どもたちにとっては必要なのだと信じ、そのようなコミュニティを継承していってもらえたらと強く願っています。