ピチカートマニア

私とオットは会って3回目(だったかな?)で結婚し、交際期間というものが存在しなかったので、お互いの趣味についてはまるで知りませんでした。しかし不思議なもので、結婚してみると「あれ、趣味かぶってたね」ということがいくつかあり、そのひとつが「ピチカート・ファイブが好き」ということ。いや正確には私はピチカートファンというより「小西マニア」だったのですが、まぁそれはともかく、ふたりともピチカートが好きということが判明したのでした。

そんなピチカート好きなオットは、なんと30代前半にして「a message song」を聞き、「これでもうボクは親になれる」と思ったのだそうです。この詩(うた)は、「冬のある日 言葉のない手紙が ぼくに(きみに)届く 忘れないで ぼくはきみをほんとうに愛している」というのが繰り返しうたわれるのですが、オットはこれを恋の詩ではなく、親子の詩だと思ったとのこと。そして「親として伝えるべきことは『愛している』ということと、『いつか君も誰かを愛するようになるよ』ということだけだ!」ということに気づき、「これでもうボクはいつでも親になれる」と思ったのだそう・・・Oh!こういうところが私とオットとの決定的な違いといいましょうか、オットは「教育」というものが最高水準で機能しているような桃源郷環境で育ってきているので「親になることへのためらい」みたいなものが微塵もないのですが、私は親になっても「親になることへのためらい」をうじうじと持ち続けているような人間なんですよねぇ。はじめてこのエピソードを聞いたときの私の驚きようったらなかったですよ。「こういう人もいるんだ!」ってね。絶滅寸前の希少動物を見るような感じでした。でも人と人が出会うことの意味って、こういうところにあるのかしらんとも思います。だってそういうオット(とオットを育んだ環境)と出会ったからこそ、私は「教育」や「親になること」への可能性と信頼を寄せられるようになったのですから。

それにしても、この「a message song」を改めて聴いてみると、どことなく宗教的な香りさえ漂っていて、「小西さん、すごい」とうっとりします。だって「ぼくはきみをほんとうに愛している」と言っておきながら、「言葉のない手紙が」届くんですよ。そしてさいごは「きみとぼくはかならずであえる」・・・私はこれは神との出会い?と穿った解釈をしてしまいましたが、それと同時に「親になってから出会い直す親」でもあるかなぁと思いました。愛情を注ぐほうの立場になってみて初めて気づく、「愛情を注いでもらったからこそ育ってこれた自分」(=愛情を注いでくれた親)・・・まぁとにかく、神(のような存在)から、親から、手渡されていくのは、実のところ「これだけ」なんでしょうね。