安心とは

10月1日から私立幼稚園の入園手続きが始まり、こ初々さんも来年度から通う幼稚園が正式に決まりました。去年の今頃はあちこちの幼稚園を見て回るも「通わせたい幼稚園がない」と失望しっぱなしだったのですが、それが一転して「全幅の信頼を寄せられる」幼稚園に出会えたのですからご縁というのは不思議なものです。もちろん「幼稚園がこんなだから、こんな(だめな)子どもに育つ」ということではありませんが、やはり親としては「愛情豊かな先生たちに見守られて、お友達とめいっぱい楽しい時間を過ごして欲しい」と願うもの。そこだけ確信できれば、幼稚園に望むことはそれ以外にないと言っていい。しかしもし「そこ」が確信できなければ、おそらく常につねに不安と不満を持ち続けてしまうでしょう。幼稚園によっては「常時監視カメラを回していて、セキュリティもばっちりです」だとか「園バスが現在どこを走っているのか、携帯でチェックできます」だとか「給食メニューは、全て成分表をのせます」というような形で「安心」を提供しようとするところもあるようですが、私が保守的なのでしょうか、私はそうして頂いてもちっとも安心できません。まぁこれは医療におけるインフォームドコンセント(説明と同意)」や「医療安全対策」と根は同じ問題なのですが、あらゆる「サービス」と「義務」が、「こちらはこれだけやっています、なので非はありません」という形をとってしまうんですよね。なのでおそらく何か問題が起きたときには、「あらゆる対策を講じていたし、その説明もきちんとした。だから問題はこちらにはない。あとは自己責任です。」と言い逃れされて(させて)しまう。それでは、ちっとも安心できない。しかし「子どものことを第一に考えて、そのために立ち働く」ことをミッションにしている人々は、たとえ予想外のことが(残念なことに)起きてしまったとしても、そのような場合においてさえ子どもの利益を最大限守るために精一杯の努力を払ってくれるだろう、誠意をもって対応してくれるだろう、そう信頼できます。ですから私は、「これだけのことをしています!!」という売り文句よりも「こんなことを大切にしています」という言葉や「誰のために働くか」ということを明確にしている態度にこそ、「信頼」を寄せる価値があると考えています。

いやしかし「誰のために働くか」なんていうのは、幼稚園なんだから「子ども」に決まっているじゃないかと一般的には思われるでしょうね。ところがいくつか幼稚園を見て回って私が非常に残念に思ったことのひとつは、「子どものためというより、親のため」というような幼稚園が圧倒的に多かった、ということです。例えば「園バス」「給食」「預かり保育」は幼稚園の「三種の神器」と言われ、幼稚園はこのような充実したサービスを「売り」にしているんですよね。でもよく考えてみてください。この三種の神器はどう考えたって、子どものためではなくて「親の都合のため」です。もちろんそれらの「サービス」は有り難いものですし、悪いわけでは決してありませんが、幼稚園へ行くとのっけから「うちは園バスもあります、給食です、預かりもやってます」なんて説明されるとげんなりしてしまうのは私だけでしょうか。そういう付帯サービスについて知りたいわけじゃなく、「あなたがたが日頃何を大切に思って幼児教育に取り組んでいるのか」が知りたかったというのに、誰もそんなことは説明してくれない。そして主体は子どもであるにも関わらず、「親にばかり関心を払う」様子もどうしてもなじめなかったんですね。ところが通わせる予定の幼稚園に行ったときには、まず園長先生がこ初々さんの目線まで腰を落として「はじめまして」と挨拶をして下さった。この瞬間に「誰のために立ち働いているか」は明確となり、幼稚園に失望しっぱなしだった私に初めて「安心」を手渡してもらえたように思っています。

人のすることに、ミスはある。どれだけ対策を講じていたって、事故を100%防ぐことはできない。しかしそのような時にも、最終的には「この人たちに任せていたのだから、やむにやまれぬことだったのだ」と納得できるだろう。それが私にとっては「安心」というものです。

そして全く話は変わるのですが、つい最近私たちは土地を購入し、大きなローンを抱えることになりました。事情があって生命保険に入れなかったため、もしオットに万が一のことがあった場合、私がその債務を負わなければなりません。もちろんローンの残高によっては土地建物すべてを売却しなければならないことになるのですが、しばらく真剣に考えたのちに「それで何か問題でも?」という気持ちになってきました。だってですね、大体この十年くらいの間にもしオットを失うようなことがあったとしたら、誰も頼る人のいないこの京都の土地に暮らしていくことに何の意味があるというのでしょう。一人であくせくこの土地と建物を守ることが大切なことだなんてとても思えません。きっと私はあっさりとこの土地を離れ、義母や親類の多く暮らす地へと移り住むに決まっています。きっと私が何よりも恐れるのは家や土地を失うことではなく、頼る人のない中で孤立すること。「頼る」というのは何も物質的、経済的に頼る存在ということではなく、私たちを気にかけ応援してくれるような人たちが身近にいてくれるということです。そしてオットのことをよく知り、たとえオットが亡くなったとしてもオットのことを語ってくれる人たちのそばにいれば、きっと大きな孤独も和らぐ。たとえ「もの」は残らなくても、人と人とのつながり、なき人との思い出というつながりを持ち続けることができれば、きっと生きてゆける。ですから生命保険をかけて「もの」だけが残されるよりも、この人とのつながりこそが本当の意味での「安心」なのだ。結婚をしてそのようなつながりの中で生活させてもらえて、私はオットに感謝しています。そう、保険に入るよりももっともっと上等の「安心」をもらっているのであり、それはオットが長い時間をかけて築き上げてきた財産にほかならないからです。

何があるか分からない世の中で安心して暮らしてゆくこと。それは私にとって「ひと」であり、そのつながりを豊かにしていくことが「生きていくこと」そのものなのだなぁと感じています。・・・ということを書いたのはずいぶん前なのですが、今日ちらりと内田センセイのブログをみると、「年収などの経済的要因よりも、人間関係の『つながり格差』が学力を左右する傾向にある」という研究結果が報告されていて、なんというかそこかしこでつながりを持って生きていこう!というふうに世論が動いていっているのかなぁと思いました・・・