丸呑みヒョイヒョイ

supply72009-11-20

ヒョイヒョイヒョイ。
大好きなパスタ屋さんに向かってまっしぐら。
こんな感じで。ほんと、追いつけません。

 この一週間、猫とおとなしく寝てました。ヒコもなんとか毎日早起きして、ダンナと通園してくれました。冷たいほっぺをして帰ってくると、「あかちゃ〜ん」と挨拶に来てくれます。

 私は(そういえばダンナも)、ヒコが生まれて、分娩台の上で初めて顔を合わせた瞬間「キミだったのか!」と声をかけて以来、いちども赤ちゃん&子供語で話しかけたことがありません。「ママでちゅよ〜」「ブバブバブバ〜」とか、そういう類いの(あ、ただ一人、ダンナ母が時々言ってた気が)。それどころか、わかろうがわかるまいが、ついつい、どっさり漢字まじりの大人に話すような言葉遣いで話してしまうこともあります。もちろんそれだとヒコも理解できないので聞き返してくるし、ちゃんと言い直します。でも、時々前後のニュアンスから、およそ4歳児には似つかわしくない言い回しまでも習得してしまっているようで、昨日などは「メールの返事、来るかな」と、問いかけるともなく問うと、「うん、その可能性はあるね」と返されてしまいました。可能性、あるそうです。
 でもそうやって、多少無理そうなものでも、「丸呑み」しながら身につけていくんでしょうね。いろんなことを。たぶん、自分の次に赤ちゃんができて生まれるのだって、理屈では嬉しいと言うしかないけど、感覚や感情の上では完璧に受け入れられてるわけじゃないだろうと思うんです。でも、生まれちゃったら、その事実を「丸呑み」するしかないし、誰がどう気を回したり心配したりっていうことはほとんど用をなさなくて、とにかくヒコ自身が咀嚼していくしかないし、すべての人は多かれ少なかれ、そうやって生きてきたんだろうと思います。むしろそれが「少なか」った人は、「心のアゴ」が弱いかもしれない。

 思いつく限り、できるかぎり、「子供の立場」に立って、様々な環境を整えることは大切だと思いますが、そう思って、思って、時に思いつめて決めたことが、思いもしなかった事情やできごとで、あっけなく崩れたり、違う方向に転げるかもしれないというようなこともまた、「気軽に覚悟(矛盾した言い方ですが)」しといたほうがいいだろうと思います。幼稚園や保育園そのものは素晴らしくても、たまたま一緒になった組の子との相性は最悪、ということがあるかもしれない。私の保育園選びは、父がその保育園を経営している会社に関わっていたのもあって、むしろ「そこしかないっしょ」ってものでしたが、とってもいい保育園だと思うし、父がその職を離れた今も、だからといって近くの保育園に変えようということを思いつきもしません。それにまぁ、見て回ったわけじゃないですけど、長崎の幼稚園とか保育園って、選択肢もあまりない代わりに、そんなに大きな「個性」ってないような気がします。近くにあるなら、そこに行っとけば?みたいな。
 ひょっとしたら、大きな街の人って、ポリシーとかライフスタイルとか、もっと言えば収入差とか、そういうものが強く別れてて、それに合わせた「園」が存在できるだけの人口があるから、なんかこう、小さいころから自分や自分ちのカラーやレベルをイヤでも自覚したり決めたり、結果、属したりしなくちゃいけないのかな、と感じます。長崎だったら、よほど「志が高い」親じゃない限り「近所の保育園→近所の小学校→近所の中学→行けるレベルで、できれば家に近いほうの高校」ってコース。中学から私立に行く人って、すごーく珍しかったです。よほど勉強ができるとか、特殊な学科に行きたいとか、はたまたおうちにすごい主義信条があるのかっていうような。最近では、なまじ小・中学校を選択制にしたばっかりに、「ちょっとでもイメージのいい学校」とか「平地にある(じつに長崎っぽい理由)」なんかに人気が集まって、そうなると、一度ケチのついた学校はどんどん敬遠されて、学校間で入学者の数が開いてしまい、また元に戻すとかなんとか、問題になってます。その説明会のニュースを見てると、行政側に食ってかかるように質問してる親がいたりするんですけど、なんだかなぁ、って思うんですよ。
 良くも悪くも、長崎では「中学までは団子状態」。自分に合おうが合うまいが、そこにある学校に、とにかく行くんです。子どもも親(これ重要)も「将来」なんて考えるのは、やっとこさ高校受けるころか、いや〜、高校入って、卒業後を考えるころでしょうか。それまではたっぷり「なんでもない状態」を満喫できます。その上で「ぼんやりとだけど、抑えがたい自分の方向性」が頭をもたげてくるか来ないか。それって、気楽で自由だな、って思うんですけど、しょせんレベルの低い田舎の不自由さに過ぎないんでしょうか。でも、行くんですよ。東大や京大行きたい子は必要単位外の教科を独学してでも。大学って、ほんとはそれくらいして行くようなとこじゃないんでしょうか。
 どんどん話が広がっちゃってますけど…。最初の「マクラ」に無理矢理つなげると、
 環境って、子どもにとっては、いつでも、ある程度「丸呑み」するしかないものだと思います。それがどれほど「子どもによかれ」と思ったものでも、実際に良きものでも、それを咀嚼し、身につけるのは(あるいは付けられないかもしれないけれど)、子どもたち自身だし、彼らは親が思いもしないような道を見つけ、ステップを踏み、ひょいひょいと成長していくんじゃないでしょうか。少なくとも私は、そういう育ち方(育て方、ではなく)を望んでいますし、実際にヒコは、そうやってヒョイヒョイと走っていってしまうのです。