祈るしかない

今でこそ、どことなく(というか、全体的にかも)規範めいたことを強調して語る私ですが、本当のところは「教育に対していい思い出がない」とはっきり言えます。ですから「教育」に対してはポジティブなイメージよりも、どちらかというと恨みがましい気持ちの方が勝っていましたし、ゆえに自分を「教育的な立場に置く」ことの恐怖心をなかなかぬぐい去ることができませんでした。私と同じ世代の人が全てそうであるとは言えませんが、総じて私と同じ世代は「教育が機能していない」環境で育ったのではないかなぁ・・・それは分からないのですが、教育と暴力が結びつくこと、(ゆえに、なのか?)自分を「教育的立場に置くことへの躊躇」は、私を含めて多くの人に見られる現象のように思います。自分にその資格を問う、ということも、自分が相手に及ぼす(悪)影響の大きさを思ってたじろいでしまうということも。
ところで「教育が機能している」という状態とは、ここでは操作的に「教師への敬意が働いている」状態としたいと思います。ですから何も「素晴らしい教師がいて、素晴らしいことが教えられ、生徒もそれに対して熱心に学ぶ」というものではない。ただただ、もしかしたらしょーもない教師かもしれないけれど、みんなに敬われ、そのように敬われるべき姿でありたいと願う教師がいて、教え、教えられることが成り立っている、ということ。少なくとも私は、小学校の頃など担任の教師を「てるこ〜」などと呼び捨てにしたりして、「敬意」というものを払った記憶がちっともありません。それは小学校に限らず、中、高だって同じですし、本当に今から考えると「穴があったら入りたい」というよりはむしろ、「ごめんなさい」と先生たちをたずね歩きたいくらいの気持ちなのですが、とにかく「教師を敬っ」た記憶がないんです。いや本当に、それらの先生たちはもしかしたら敬われるべき資格のない人たちだったかもしれない。(と判断したから、当時の私はそんな扱いをしていたのでしょう。)でも、問題はそういうことじゃないんです。たとえそうだったとしても、「私はそんなふうに振る舞うべきではなかったんだ」と今は思うのです。というのも、そのような振る舞いのうちからは、「何も学べない」からです。ですから「教育が機能していない」環境というのは、何も質の悪い先生がただけのせいではなく、むしろ敬意を払って学ぶことをしなかった私が積極的に作り出してしまったということなんですよね。まぁこういうことは、内田センセイがよく仰っておられることなのですけれども、本当に懺悔の気持ちになります。
で、こういう環境の中で育ってしまうと、やはり教育というものに対して感謝の気持ちを持つよりはむしろ、その悪影響のほうばかりが気になってしまいます。そしていざ自分が子どもを前にすると、そのような悪影響を今度は自分が及ぼしてしまうのではないか、という恐怖心がむくむくとわきおこってくるのです。基本的にはずっと「被害者」できたので、自分が加害者(になるかもしれない)立場に立つこと自体が、本当はいや。子どもが生まれてからも、私はずいぶん長い間そう思ってきました。ですから私は「教え、導く」ような立場になるべくたたずに、可能な限りフラットなところを目指していたのですが・・・しかしいくらそれを目指したところでフラットになれるわけもなく、そしてフラットなゆえのしんどさも加わってきて、「いややはりこれは違うのではないか」となんとなく気づいてきました。そうこうしているうちに「親って役割なんだよなぁ」という話になって(ずいぶん前に書きましたね)、恐る恐る「教育的立場」に身をおきながら感じていることは、「もちろん、私が子どもに悪影響を及ぼす可能性は残念ながらいくら頑張ったってある」ということと同時に、「だからといって、諦めない」ということです。諦めないなんていうと、なんとなく体育会系なのりですが、まぁそれに近いところはあります。というのも、「未熟で不完全なゆえに悪影響を及ぼす可能性もあるし、現に及ぼしてもいるのだろうけれども、そこをそのままそれでよしとせず、常に自分の未熟さや不完全さを『どうにかしたい』と願いながら進歩していきたい」というような、なんだか暑苦しささえ感じるような、もうこれは「祈るしかない」みたいなところに入っていくからです。師は「思っていて実行がかなわないことは祈りなさい」と言いますが、それはもう本当に「いや本当に、そうしたいけど出来ないんです。出来るような自分にさせてください」と他者に祈りたくなるような感じ・・・結局「こんな私に親の資格があるのか」と問う代わりに、「その資格はないかもしれないけれども、その資格をそなえさせてください」というような祈る気持ちが、「教育的立場」に立つうえには必要なのでしょう。そしてきっとそこには(子や生徒からの)敬意が生まれ、親や教師の進歩と同時に、育ち学ぶ側にも「学び」が立ち上がってくるのではないか。そんなふうに思っています。
教育にしても子育てにしても、人のすることだから失敗もあれば間違いだってたくさんあることでしょう。それ自体は取り返しのつかないことですが、そこからいちいち反省をしてよりよくを目指していくよりほかありません。私も毎日「イラっとしてもそれを不快なかたちで表現しない」とか心がけていますが、それでも「しちまったよ・・・」ということの繰り返しです。以前でしたらそれを正当化してストレスコーピングしたり、「こんな私だし、あんまり子に教育的に振る舞う資格ないし」と言って影響力を行使しないようにしたりしていたのですが、今は可能な限り「いや、親なんだからそれはせんならん(してはあかん)」と気持ち的に奮発するようにしています。もちろん、うまくいかないことのほうが圧倒的に多いのですが。
でもきっとそうやって、「役割」が育ててくれる「自分」がいるんですよね。それは「親」だって「教師」だって一緒でしょう。はじめから親や教師というのは、もしかしたらいないのかもしれません。「役割」が与えられ、その役割に見合うだけの「自分」に少しずつしていく。そうやって成長していくものなのかもしれません。
・・・というのはもちろん言うまでもなく、私の個人的な「親」考なので、様々な親のあり方があり、それぞれにその思想があるのだと思います。どれがいいとか悪いとかいう問題ではありませんが、私自身はこういう形で成長する機会を持てたということに感謝をしています。「賢いお父さん、お母さんになってください」、幼稚園の先生にハッキリそう言われましたが、それが親という絶対的な立場で影響力を行使していくことへの「償い」なのだというふうに私は思っています。