事務員なのだが・・・。

先日、4歳になったばかりのうちの長男が「お父さんの勉強を手伝う」と言い出したのでちょっとびっくりした。なぜ父親が勉強しているなんて知ってるんだろう。確かに家にいるときはパソコンに向かってキーボードをカチャカキャ打っていたり、本を読んでいたりするが、それをどうして「勉強している」という風に認識したのだろうか。よほど父から「研究者オーラ」が泉のように出ているのだろう。
たぶんそれはない。単に母親から「お父さん勉強している」と教えられただけのことだろう。

まぁ、でも、言ってもらったのはありがたい。とはいえ、「いまちょうど読んでいるアーレントの『カント政治哲学講義』での判断力の扱い方について君の意見は如何に』などのような話はまだできないだろうから、せめて「あの本取ってきて」「この本片付けて」と、秘書かメイドか執事かという種類の手伝いをしてもらった。将来的には郵便などを出してきてもらうと実にありがたい。

僕が昼間勤めている建物が交通センター的役割も果たしていて、バスの出入りもある。なので、勤めだした頃、「お父さん、バスを運転したり、作ったりしてるんだよね」と調子こいて嘘を言ったことがあった。ところが、つい先日、車で走っていたときにバスとすれちがいざま、「お父さん、これに乗ってるんだよね」と長男坊が言った。
え、まだ信じてたの!?と思う半面、嘘をついすまない、実はバスの運転士とかバスのエンジニアとかそんなカッコイイ仕事じゃなくて、ワードとかエクセルとかパワポとかフォトショとかカチカチしながらアスクルのカタログのページめくってFAXで注文したり、銀行からお金を出して振替伝票をチマチマ書くようなセコい事務員なのだよ、と心の中で詫びた。

と言いつつも、きのうはちょっと長男と喧嘩して、かなり気まずくなった。

こうなると親として存在すること自体が暴力ではないかとすら思えてくる・・・なんて筆を滑らしてしまうと、また暴力の話かよ、ちょっとくどいぞお前、と言われそうな気もしないではないが、いや、やはりくどい。人間、切り替えが大事だ。っていうか、「暴力」という単語自体がひどく重々しいですとね。ドヨーンと。いっそ「コッペパン」とかそういうふうに表記すると話が爽やかに・・・なるわけないですね。すみません。

自分の肉体や精神に降りかかる直接的な、それこそメタファーでもケンプファー*1でもない暴力もあれば、「それは暴力だ」と誰かによって名指されることによってはじめて暴力として存在することができる暴力もあるような気もする。しかもこの二つの線引きはかなり微妙な気もする。自身が直接蒙ったからこそ、それを暴力だと名指すことが出来るのだし、逆に名指されたものとしてその暴力を認識したからこそ、自身は暴力を直接蒙ったと感じるのかもしれない循環論法。(ややこしいな。)蛇足だが、表記上のゆれ程度の問題かもしれないが「暴力的ではない教育」と「暴力ではない教育」とは、総ページ数7ページ(奥付含む)のホッチキス大辞典的には意味が微妙に異なってくる。ホッチキス自身としては「暴力ではない教育」の可能性を信じることは難しいが、「暴力的ではない教育」の可能性はある程度ありえると思っている。ただ、「暴力的ではない」こと自体が暴力ではないとは言い切れないのだが。(無駄にややこしいな。)

ちなみにベンヤミンは法の措定あるいは維持といった目的のための暴力としての「神話的暴力」と、目的無く、しいていえば暴力の行使それ自体が目的であり、神話的暴力が法を措定するならばその法を破壊するような暴力を「神的暴力」とを区別したが、その件と今回のホッチキスのエントリーはあまり関係がないと思う。だとすると最初に「ちなみに」と書いたが全然ちなんでいないことになる。

話を元に戻そう。と、そんなこと言う奴に限って戻さないのだが、こうもダラダラ書いているとそもそも戻るべき話があったかどうかも怪しい。というか、ほんとうに何を書こうとしていたのか忘れた。うまいぐあいに子育てに話が結びつくハズだったのだが・・・。(ほんとうか?)

ただ、「暴力(的)ではない教育は可能である」という命題と「暴力(的)ではない教育は不可能である」という二つに命題は、ゲーデル不完全性定理の第二定理「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない」で考えれば、同じぐらいに正しく、そして間違っているのだろう。いや、おそらく、正しいとか間違いとかという問題ではなくて、どちらがどうであちらがどうだということは証明不可能な事柄なのかもしれない。

・・・と戯言はどうでもよくて(戯言なんて単語生まれて初めて使ったかも)、何が暴力でなにが暴力でないかということよりも、自分が暴力の側にいるということ、どんなにいい親であろうとしても自分が子どもにとっては暴力者(こんな言葉があるのかはわからないが)であることのほうが僕を憂鬱にさせるのである。というか、憂鬱という言葉を自分に対して一度使ってみたかったのだ。

*1:自分でも驚くぐらいスルっと出てきた名詞だけど意味がわからず、調べてみたら、一年戦争末期にMS-14ゲルググに続いて、MS-16ザメル、MS-17ガルバルディとともにMS-18として開発が計画されていたMSの名称。