ホイッスルとガンジー翁

先週の私の記事に対してyukamideさんからご質問をいただきましたので、ご質問にお答えする形で、先週に引き続きオット初々が担当します。

先週の記事は、実は、“ホイッスル”の問題*1と“運動会”の問題を、混ぜて書いております。本当は、分けて書いた方がわかりやすいとは思いましたが、2つの問題は共通する問題点を孕んでおりますので、混ぜて書いてしまいました。根がずぼらなもので、すみません。

ということで、お答のほうは、“ホイッスル”の件と“運動会”の件に分けて書いてみます。

で、今日は“ホイッスル”について。

ホイッスルって、警笛であったり、呼び子であったり、つまりは遠くにいる人に合図を送るために使われるもの、だと思います。ですからホイッスルは、遠くにいる子どもにも届くように使われます。そのように使われるなら何も問題ないと思います。しかし、運動会の練習場面では、それを近くで、20分なり30分なり、すぐ隣で聞かされている子どももいるわけです。その子たちのことをわたしは気の毒だと思います。また、それは音の暴力だと思っています。なぜなら、その子は抵抗することはできず、そこから逃げることも禁じられているから。

なぜホイッスルを吹かなければならないのでしょう。わたしには、子どもたちの“乱れ”を抑制する手段として使われているように思われます。つまり、子どもたちの小さなノイズをホイッスルという大きなノイズで抑えようとしているかのように、わたしには見えるのです。なんだか、小さな声を大人の大きな声でかき消してしまうかのように。先の文章では、「ホイッスル」を実物そのものを指して使うと同時に、そのような、小さな声を大きな声でかき消す手段を表ための比喩として使っています。ですから、それが教師の生の声であれ、太鼓であれ、親・教師にとってのノイズをさらに大きなノイズでかき消そうとする手段なら、それはホイッスル的な手段だと思います。また、自戒の念を込めて、私自身がホイッスル的手段を取らないようにしたいと思っています。ですから音の発生源を問題にしているわけではありません。


で、私が願うことは、子どもたちには、「大きな音だからそれに従う」のではなく、「自ら小さな音に耳を傾ける」人になってほしいと思いますし、ホイッスルを吹く人には、隣の子どもから発せられているかもしれない小さな声に耳を傾けられる人であってほしいと思っています。つまり、「もしかしたら、この子はうるさいと思っているかもしれない」と考えられる人であってほしい、ということです。もし、ホイッスルを吹く人にその視点があったなら、ホイッスルは決して暴力的には使われないでしょう。この辺りは、わたしの奥さんである初々さんが、以前に書いていたこと「おむつを使わない」話で語られた、「もっとも小さきに人に心を砕く」ことと共通するかもしれません。


数年前、数日間、わたしは男子高校生を前にして実技系の授業する機会がありました。その中には、まぁ見るからに“オレは悪いんだぞ”オーラを発している生徒たちがおりまして、その彼ら、授業中もずっーとイヤホンを耳に入れてるんですね。イヤホンを耳にしたまま、授業中、寝るか、隣の学生と話をしていました。当然、授業の中でわたしが指示したことはできません。で、それを指摘しますと、彼らの答えは「(イヤホンを耳から外して)えっ、聞いてなかった」でした。つまり、彼らの言い分はこうです。「イヤホンで耳がふさがっていたので、あなたの指示が聞こえていません。あなたの指示が聞こえなかったので、あなたの要求には応えられていません。聞いていながらやらなかった、というわけではありません。指示が聞こえなかったのだから、それができていなくてもしかたがないのです。」ということです。この言い訳は衝撃的でした。「ああ、なんて平和的で、かつ効果的に教師をバカにする抵抗なんだ」と。で、その時思ったのは、彼らは今まで、ずっと“暴力的に大きな音”に従わせられてきたのではないか、彼らは、“大きな音”への抵抗手段として、さらに大きな音で対抗するのではなく(まぁ、(比喩としての)“音”では生徒に勝ち目がないし)、自らの耳をふさぐ、という極めて平和的な手段*2をとっているのではないか、と。こういう子どもたちに、耳をこじ開けるように、ガツンと大きなホイッスルをお見舞いしたとしても、おそらく、ますます平和的に耳を閉ざすだけでしょう。眉毛まで金髪に染め抜いたいかつい顔が、なんだかガンジー翁に見えたのでした。

オット初々

*1:“問題”と日本語で書くとproblemの問題とissueの問題が区別がつかなくなりますが、ここではissueの問題です。ですから、ホイッスルや運動会自体をproblemとしての問題だ、と言っているわけではありません

*2:平和的手段は常に“敗北主義だ”と揶揄されるのだけれど