ホイッスルを使わない

先週のホチキスさんの記事。「電子音禁止教育」!冗談かと思いました。まぁ、どうしたらど子どもが“健全に”成長するか、一生懸命考えているんだろうけど、それにしたって…。で、思い至ったのがホイッスルのこと。そう、あの「ピピーッ」と、けたたましく金属音をまき散らすやつ。あれは“生音”に分類されるのでしょうか。たとえグールドでもCDってことでダメ、という原理主義的基準に従えば、推奨すべき“生音”ですよね。

9月、10月は運動会の練習の季節。どの幼稚園、保育園でも運動会の練習はこのホイッスルが“大活躍”。でもわたし、このホイッスル音、大嫌い。保育現場において、ホイッスル以上に「暴力的な教育用具*1」はないと思います。

いやね、ホイッスルの「ピピーッ」という合図で、子どもたちが一斉に動いたり止まったりする姿が軍隊みたいでいやだ、とか、いかにも日本人的で、全体主義的で、ホイッスルは無個性化教育の象徴だ、なんて言っているわけじゃないんです。実際、ああいう合図に合わせて、規則正しく動いたり止まったりしているわが子を見て、喜ぶ親も少なくないです。「規律を身に付けた」とか「この園は指導が行き届いている」ってね。園の評価が上がるらしい。だから、各園そろいもそろって「ピピーッ」ってやるんでしょう、少子化時代の園児獲得のために。いや、10000000000000000000000000歩譲ったら、そういう教育もありかも知れない。「全体で動くこと」自体がヤダって言ってるわけじゃない。「他者の身体を感じながら一斉に動く」ってことにも、きっと何か意味があるのだと思う。

でもとにかくあの音が嫌い。あの「「ピピーッ」で練習させられてる子どもたちが気の毒で仕方がないです。特に、耳のすぐそばでそれを聞かねばならない子どもが。もちろんそれでも子どもは、黙って、文句ひとつ言わず練習してるけどね。だいたいあれは、広い園庭全体に、教師の意思を行き渡らせるための道具。隣の子とおしゃべりしている子どもや、注意が逸れている子どもに対して、つまり“全体にとってのノイズ”に対してより大きな音で対抗するための道具。「目には目を、歯に歯」をのハンムラビ法典

園のパンフレットには「一人一人を大切にする保育」って書いてあるんだよ。どうして教師は自分の隣にいる子どもの耳を気遣えないのか。「ホイッスルを使わなければ教師の意思が全体に行き渡らない」というのなら、目指すべきは、「人の言葉に耳をそばだてることのできる子ども」ではないのか。

と、ここまで書いてその刃は自分に向けられるのだ。泣きわめくわが子に対して、私語の多い学生に対して、それよりも大きな声で叱り返すこと、あります。大きな声に対してそれよりも大きな声で対抗すること、ありました。でも、それはやっぱり駄目なんだよね。泣く子よりも大きな声で、あるいは電気で増幅した音を使って対抗してちゃ。そうではなく、「耳を傾けたくなるような声」、「ふと黙って耳をそばだててしまう声(と内容)」を身につけること。ホイッスルになってはいけない。これが最近の私の課題なのです。

追記
下の、yukamideさんのコメントを見て、自分が署名していないことに気がつきました。上の記事は、オット初々でした。

*1:この形容矛盾を思い知れ、・・・って誰に言ってんだ