オッサンたちのことだけでも認めてやってください。

カナさん、日本へようこそ!
・・・じゃなくて、お帰りなさい、ですか。ともかく、引越しその他もろもろお疲れ様です。

久しぶりの更新といっても、自前ブログでも書いたことなので、手抜きといえば手抜きですが、ここはひとつ「子育てブログっぽいネタ」ということでご寛恕願いたい。

ここ最近で一番の衝撃だったもの。それが「電子音禁止教育法」の存在。なんでも「情操教育」(すごいマジック・ワードだ)のためで、とにかく機械音だからということでCDもだめらしい(CDはデジタル・データだから)。だから、その保育園では運動会もPAやCDは無しで、音楽も「生演奏」。すごい。

すごい。それは認める。そういう考え方があるのも認める。確かにあの携帯電話のピーピーピコピコ音とか、「音の出る絵本」って、かなりうっとうしい。そういう電子音はご免こうむる、その点ではこの考え方に賛同もしよう。

でも、そういう保育園には自分の子を預けるかといえば・・・たぶん、ホッチキス家の方針という点に限っていえば、たぶん、その可能性は低い。世界に保育園がそこ一つになっても、たぶん、かなり躊躇するだろう。
電子音→機械音→無機質→暖かみが無い→子どもに悪い→ダメ!(→無機質で無感動な子どもになる→キレやすい子どもになる→人殺し・・・以下同様)といったわかりやすい思考回路がなんとなく予想できるだけに、何とも「・・・・」な感じだからだ。

実際にその保育園の様子を見たわけではないので以下は推測の域をでない。
しかし、もし上に述べたような思考の流れが仮に存在するとしたら、それはあまりに単純すぎるんじゃないかな、とちょっと寂しくなった。

だとしたら、テクノだかポップだか、電子音にまみれてこれまで生きてきた僕なんかはとうの昔に狂人になって大量殺人を犯しているはずではないのか?もしかして、僕はそういう保育園のからみれば「はい!狂人認定特S級!」なのだろうか。
いや、別に狂人でもいいんだけれど、なんと呼ばれても僕個人はなんともないのだけれど、「音楽」が悪者になっているところが、なんともさみしい。

でもね、と思う。
電子音や機械を通して出てくる音や音楽を無機的だとか人工的だとかいうのは、いままで何もを聴いてこなかった人の言い訳ではないだろうか・・・こういう考え方は傲慢にきこえるだろうか。
「ピー」という電子音一つだけならば、それはただの「ピー」という音に過ぎないが、複数の要素を加えてそこに構造とリズムが生まれれば、何がしかわれわれの感性に触れるものになりうると僕は考えている。

それでも人工的な音は問題があるというのならば、たとえオーセンティックな楽器であっても、その音色は楽器から生じている以上、人工音だ。つまり楽器と言うものが人の手によって作られたのである以上、その楽器から生じた音が人工音でないわけがない。

では、自然音はどうか。風の音、潮の音・・・しかし、それらが人間の手に拠らない自然対象であっても、それらを音として知覚しているのはわれわれの聴覚器官(だけではないがいまは話を単純化する)なのであって、つまるところ自然音であっても、知覚主体としての私を媒介とすることによってしか「自然音」として認識されない。つまりどのような自然音でもそれは自然音と呼ばれるが故に人間的所産すなわち人工物である。

しかし、それとコンピューターの音は違うのでないか?やっぱりコンピューターのピコピコ音はダメだよ・・・。
もしかしたらそうかもしれない。
でも、何が違うのだろう?何を以ってコンピューターの音はダメだという判断が下されるのだろう?たとえば、自然の音は癒してくれたり、感動を与えてくれるけど、コンピュータの音は無機質で感動を与えないから、とか?

でも残念ながら感動という感情は聴いているこちら側の単なる妄想であって、、自然音そのものは別に感動的でも何でもない。確かに無関係ではないが、感情の投影の対象あるいは媒介の一種にすぎない。自然音に感動したという経験は、たまたまそのとき自然音に感動したというだけの話だ。

つまり、音楽の質や内容は感性的経験にとって、場合によっては十分条件ではあるかもしれないが必要条件ではない。

とすれば、機械の音に感動する経験だって十分にありえることを誰が否定できるのだろうか。機械の音の組み合わせが感性的でセンシティヴな肌触りとともに立ち現われることを「情操教育」の名のもとに否定する考え方にはちょっと抵抗を覚える。

もっと下世話な話、「生演奏だけど下手糞でくだらない演奏」と「機械とコンピュータの音だけどなんだか感情に訴えてくる演奏」とはどちらが「情操教育」にとっていいのだろう?

しかし、何が下手糞で何が感情に訴えてくるかはどこまで考えても主観的な問題なのだが・・・。

・・・別に熱く語るほどのことでもないのだが、この手の「ありがとうと言うと水(水の結晶?)がきれいになる」式の似非科学的な物言いを子育て業界で耳にするとなんだかドキッとしてしまう。
何か、「自分が言っていることを正当化するために自分と敵対するものをものすごく貶める」という姿勢がありありなやりかたを見せることが子どもたちにとって「情操教育」になるのか、若干不安である。

こういう考え方に触れたとき、いつもメルロ=ポンティの言った次の言葉が頭をよぎるのだ。

「原理の純粋さは暴力を黙認するのみならず、それを要請さえしている」(『ヒューマニズムとテロル』)

そのあたりを考えなければ、どんなにその取り組みが意義深いものであっても、世の中は次のようにしか見てくれない。たぶん、僕もこういうふうに見るし、見ていると思う。

http://d.hatena.ne.jp/doramao/20091022/1256218092

でも、たぶん、みんな、子どものことを思う、という点では同じなのだ。
だとしたら、そう、だったら、なおさらやっぱりあれじゃないのかな。


最後に。
せめて、10000000000000歩ゆずってCDの音ぐらいは勘弁して欲しい。
前世紀初頭からの複製技術・録音技術の進歩の歴史と、そこで格闘した音楽家や技術屋のオッサンたちのことを、「電子音禁止教育法」推進保育園の先生たちがほんのちょっとでも、ほんとうにほんのすこしでも思ってくれたらな、と思う。