理想の自分を育てる人

我が家の2歳児、こ初々さんはただいま子育て中。いや、子育てられ中じゃなくて、子育て中なのです。どうやらこ初々さん、数週間前に赤ちゃんを持ったようです。もちろん、彼女の“空想”*1の中でのお話。

子どもの名前は、あるときは桃太郎ちゃん、だったり、あるときはケケクちゃんだったりといろいろで、その姿もあるときは小さな編みぐるみのお人形だったり、場合によっては(大人の目には)見えない姿だったりもします。当然育児もします。ハンドタオルのお布団に寝かしつけたり、お風呂に入れたり、ご飯を食べさせたり、(大人には)見えないその子を抱っこしたりしてます。時には、「赤ちゃんを抱っこしてあげて」と見えない子どもを渡されることもあります。そういう時は、孫だと思ってお世話してます。この子のおかあちゃんを尋ねますと、「こ初々ちゃん」と答えます。お父ちゃんは、父ちゃん(私)なんだそうです。さらにこ初々さんの情報によりますと、赤ちゃんはただいま2歳です。母親と同じ年齢です。

そう、言わば“お母さんごっこ”なんですけどね。ただ、ごっこ遊びというにはちょっと切実感があるというか、本人が“ごっこ”としては遊んでない感じがあるんですね。その感じを強く思わせるのが、こ初々さんがこの子について語ることばです。

先にも書きましたように、この子は2歳なのですが、そのほかにも、この子は葉っぱ(野菜)をちゃんと食べ、かぼちゃも食べ、母ちゃんに「起きてー、起きてー」と言わず、散歩のときも「抱っこ、抱っこ」と言わず、「ずっと歩く」のだそうです。

もうお分かりのように、これってそっくりそのまま、私たち親がこ初々さんに日々要求していることです。つまり、今こ初々さんが育てているのは、“とってもいい子”のこ初々さんの姿です。もしかするとそれは、彼女にとっての「理想自己」、親が要求するこ初々さんの姿であると同時に、彼女自身もそうありたいと願う姿なのかもしれません。その理想とするわたしを彼女は今、自分の手で育てている。そんな気がするのです。

もちろん、この構造の中には、親の理想に自らを重ね合わせようとする“脅迫的よい子願望”を見て取ることも可能かもしれません。ただ、こうありたいと願う自分を自分の中に持つ、というのは、人の成長として自然なことでもあります。「こうありたいわたし」、「理想自己」がひとつの遊びとして、「わたし」の外部で、彼女自身の手によって育てられているのは非常に興味深いことです。

「理想自己」が育つその一方で、それと同時に「現実のわたし」も育ちつつあるのが分かります。『こ初々ちゃんって、歩かないで「抱っこー、抱っこー」ってすぐ泣くよねぇ』なんて台詞を、しらっとした顔で言ったりしますから。2歳児にしてこのセルフモニタリング能力。自分自身を見つめられる能力って、あんまりうれしくないよなぁと、親としてはちょっと心配したりしていますが、「わたしと初々さんの子どもですからしかたがないよねぇ」と、夫婦で顔を見合わせております。


オット初々

*1:“空想”だと判断するのは親の側の空想でしかないのだけれど