4歳、男の子。  

 2週くらいぶっちぎった上、今回も大遅刻ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。本来は金曜日の出番ですが、ちょうど「この日」が空いておりましたので、ここに書かしといてもらいます。
 おかげさまで、10月15日、ヒコは4歳になりました。
 4歳!
 勝手なイメージなんですけど、「幼児」って聞くと、「3歳くらい?」って思っちゃうんです。だから、私の中で「4歳」というのは、もはやすっかり乳臭さの抜けきった「子ども」。その「4歳」にヒコが到達する日が来るとは感無量です。


ヒコが大好きなパスタ屋さんで、バースディ・ディナー。
いつもの「コショウ抜きカルボナーラ」を無心に食べる。


 4歳。
 でも、私にとって「4歳」というのは、胸が痛む響きを持っています。
 誕生日に暗い話になっちゃうんですけど、長崎では数年前、「4歳の男の子」が中学生から殺されてしまう事件がありました。全国的にも報じられたので、覚えてらっしゃる方もいるでしょう。ビルの屋上から落とされたんです。事件が起きた時も、とても恐ろしかったし、暗い気持ちになったけれど、やはり自分に子どもが生まれて、殺された子の年に近づくほど、むしろ生々しく迫ってくるんです。しかも事件の現場は、週に一度といわず通るところ(いつも行くお肉屋さんのすぐ裏…)。そのビルの横を通るたび、あの事件のことを思わないことはありません。
 殺した中学生は、なにやら病気だったと言われています。でも、「4歳の男の子」と日々暮らす人間としては、「だから何?」と言いたくなります。いろいろと法律の解釈だとかなんだとか、そういうことを冷静に踏まえないといけないのかもしれませんが、やっぱりわからん。それまで一応普通に学校に行って生活してた子が、罪を犯した途端「病気でしたから」って、なんなんだろう?これに限らず、どんな理由があったにせよ「人を殺す」って時点で、そりゃー多かれ少なかれ、鑑定しなくったって、「おかしい精神状態」に決まってるだろ、と思うんですけど、こんな考え方は野蛮なんでしょうか。
 そのあたりのことは、素人が浅はかに論ずるべきものではないのかもしれませんが、ひとつ…もし自分がそのような恐ろしい立場に立たされたとしたら、絶対に嫌だと思うのが、殺された子の運動会やおゆうぎ会のビデオが繰返し流されることです。殺した方は、未成年ならば顔も名前も出されず、せいぜい移送される際の足首がちらりと映る程度。でも、殺された方は何度も何度も「殺された可哀想な子」として、人々の目にさらされる。そのビデオは、そんなことのために撮られたのではない。「楽しそうな可愛い子」として焼き付けられたはずのものなのに。こんな考えも「甘い」んでしょうか。殺された子の顔や姿は、不特定多数の人が共有して哀れむべきものなのか。それとも、それを共有することが弔いになるのだろうか。

 なんだか重ーい話題で申し訳ないですが、事件が起こった時は想像できず、しかもヒコが生まれてからあそこを通るたびにじわじわと近づいてきているような気がした「『4歳の男の子』を奪われる」という感覚が、ついにものすごいリアルさで迫る日が来てしまって、正直なところ、軽くうろたえているんです。


 ヒコは、今日は遠足。晴れて良かったね!これからも、たくさん、楽しくね!