こういうふうに育って欲しい?

「こういうふうに育って欲しい」

という具体的なイメージなり姿というのは、実は子どもが生まれる前も生まれてからしばらく経ってからも全然ありませんでした。その理由はいくつかあり、ひとつにはただ単なる怠慢というか考えなしというのもあるのですが、主には訳もなく「親として影響力をふるうこと」を極度に恐れる気持ちもあったのではないかと思います。また生育歴から、あるいは職業柄として、「教育的」な立場に自分を置くことへのためらいも、少なからずある。しかし子どもが生まれてまだわずか2年半ですが、この2年半の間に「せめて」こういうふうに育ってくれたらいいなという願いを持つようになりました。それも、「親としての自分の未熟っぷり」に直面して「こんな大人になったらしんどいぞ、あかんよ」というものですから情け無いっちゃ情け無いのですが・・・そしてきっと教育ママたちが持つ子どもへの期待と、構造的には同じなんだろうなぁ。

まぁとにかくそれがいいのか悪いのか判断できませんが、やっぱり親になってみて初めて気づく自分の未熟さというのはたくさんありますよね。・・・ってそれは私だけかもしれませんが、私はまず自分の「家事能力の低さ」に愕然としました。いや、独身の頃からお料理も好きでしたし、結婚してから子どもが生まれるまでの間にレパートリーも広げ、それなりにやり繰りもできるようになっていた。しかしそれはあくまでも「時間にも経済的にもゆとりがある」状態での趣味的なレベルというか「おままごと」に近いものがあり、「生活をまわしていく」というような視点も感覚もありませんでした。そしてそれは料理だけに限らず、掃除洗濯全てのことに関して言えるわけです。そんなふうにあらゆる家事が有機的につながっていない状態のところに、子どもが突然(でもないですけれど、実感としては突然)やってきてしまうと・・・残念なことに、途端に「たちゆかなく」なってしまった。あらゆることが「キャパシティーオーバーです!」ということになり、別に「何にもできていない」わけでもないのに、自分の思い通りにはいかないものですから「振り回されている感」と「できていない感」はつのるばかり・・・それがはじめのうちは非常にストレスフルなのですが、ある時点からはそのストレス・コーピングの結果「出来ていないことに目をつぶる」とでもいいましょうか、「出来なくてもしょうがない」と自分を納得させるように心的機能が働くようなんですよね。もちろんそれはそれでいいのですが、でもねぇ、どうせならやっぱり「子どもがひとりくらい来たところで変わらずこなせる家事能力」を自分に備えさせたいなぁと願うわけです。もちろん夫婦だけの頃よりも出来ないことは増えるのでしょうが、家族の構成の変化によってフレキシブルに変えていけるぐらいのマネージ力があれば、子余計なストレスを減らせるはず・・・というわけで子育て2年目くらいからようやく家事能力向上を目標に掲げ、茨の道な「婦人の友」を先生にしてちょっぴり努力をしている途中です。そしてその努力の過程で、「これは子どもができてからするのでは遅すぎる。子どものうちから家事能力を鍛えなければならぬ。」(←なぜか強い口調)と思うに至り、ええ、ええ、単純なことに我が子に対して「家事能力の高いおとなに育って欲しい」と切に願うようになりました。まぁそれと同時に、家事能力が高いにも関わらずそれを積極的に伝授してくれなかった実母に対して恨みがましい気持ちも抱きましたけれどもね。ですから今私が学んでいることは「最重要事項」として子どもに伝えていきたいと思っていますし、それをどう子どもが受け取るのか、その結果がどうなるのかは分かりませんが、「私は、家事全般を生きて行くことの基本として大切にしている」ことを伝えることに関しては諦めないでいたいと思っています。

思い返せば憧れの「仕事の早い」先輩ナースも、3人の子どもちゃんがいるママナースだったなぁ。新人の私はよくその先輩と夜勤を組んでいたのですが、何がどう早いのか分からないけれど、とにかく仕事が早い。私が汗をかきかきバタバタと病室を飛び回っている間に、もう夜勤の記録を書き終わっている。だからといって何かを切り詰めているわけでもなく(時々いますね、ナースコールが鳴っても全然とってくれないとか、患者さんの話を聞いてあげないとか。でもそういう冷たい人では決してなかった)、バタバタな私に「何かすることあれば、手伝うよ〜」と常に声をかけてくれながらサラリとしているんです。これはもう絶対に、あらゆる動作に無駄がないんだと確信し、その身体動作を見習いたかったのですが、残念なことにチームが異なっていたため「見て盗め」が出来なかったんですよねぇ。看護の業界で「効率」というと何となく「世知辛い」感じが前面に出てしまう感が否めないのですが、しかしたとえば患者さんに直接関わらない業務やケア・処置の準備、その時間的やりくりなどを効率よくこなせば、ベッドサイドにいられる時間をもっと多く確保できるはずなのです。「どうでもいいこと」に時間をとられすぎてしまって、本当に大切なことにさく時間がけずりとられるというのが最もばかばかしいことですから、計画をたてて首尾よく動くことにもっと心を砕けばよかったなぁと今更ながら思います。そういったことも家事から学ぶことがおおいにあると思うのですが、私はどちらかというと「看護業務から学んだことを家事にとりいれる」と逆転しています。そして家事の効率ということを考えるようになってから、「きっと今のほうがもうちょっとましに勤務をこなせただろう」と思うんですよねぇ・・・

それはまぁ子育てに関しても言えることで、「今の家事能力だったら、もうちょっと楽に子育てできたかな」と振り返って思ったりもします。もちろんそうやって経験をつんでやっていくしかない、ということなのでしょうが、それでも自分の家事能力が子育てに及ぼす影響というのは大きい。色々なことを余力をもって楽しむ、取り組むためにも、生活の基盤である家事をきっちりこなせる能力を日々高めたいなぁと思っています。・・・って、子どもに対する期待が自分に対する期待になっちゃいましたけれど。

ちなみに家事を上手にマネージし、賢い生活者を目指すための教科書は、やはり「婦人の友」がお勧めです。(←主婦の友ぢゃないですよ)しかし何度でも言うようですが、これは茨の道なので、これまで幾度も「こんなこと出来ません!」とパタリ本を閉じるなんてことを繰り返した私・・・それでも結局「やっぱりこれが一番効率的なんだな」ということに気づかされることが多いので、数多くの「デキル」主婦が長年試行錯誤を繰り返してきた結果が蓄積された方法論なのでしょう。ですから「一見面倒くさそう」に見えることも、最終的にはそれが一番手っ取り早かったり、賢かったりするのだろうなぁ・・・結婚する前は「婦人の友」に興味はありながらもその茨の道っぷりに「敬して遠ざけ」ていましたが、結婚すると周囲に婦人の友読者がちらほらといて「やっぱりそういう(出会う)ことになっているんだよなぁ」と、ため息。そして保育の先生からは「婦人の友を回し読むグループに入らない?」と誘われていたのですが、今は義理の母が読んだものを頂いてありがたく読ませてもらっています。

ところで結婚する前は(いや、たぶん結婚してしばらくの間も)、「主婦」という言葉にセンシティブに反応していたように思います。ええもちろん、ネガティブな方向で、ですよ。それが今では、「デキル主婦」だとか「賢い主婦」なんて言われたら、最上の褒め言葉。人間、変わるものですね。