喜びの語法を身につけたい

「赤ちゃんにおむつはいらない」

三砂ちづる先生の「おむつなし育児」研究チーム?による結果報告がまとめられているのが本書なのですが、あまりに衝撃的でした。いや「赤ちゃんにおむつは要らない」という事実そのものは、自分自身の経験を振り返ってみても「そうだろうな」と思いますし、まただからといっておむつなし育児が結果的に出来なかったことに対しても「残念だな」と思いこそすれ、そこにこだわりもあまりありません。では何が衝撃的だったのか。それは端的に言うと、ほんの数十年の間に変化してしまった「育児を語る語法の変化」であり、そしていかに自分が変化してしまったその語法によって縛られているか、ということでした。

その語法とは何か。それは「赤ちゃんのために、手をかけてあげたい」育児から、「育児は大変だから、なるべく母親(つまり自分)の負担にならないように、手間をかけない楽な」育児へ。前回の記事にも書きましたが、私自身に関して言うと、手を抜きたいわけでもないつもりなのですが、知らず知らずのうちに「あんまり頑張りすぎるとストレスになって、のちのち悪影響が出てきそうだから、そんなに頑張りすぎないでおこう」という、考えてみると変なロジックで自分にブレーキをかけてしまいがちな傾向がありました。しかしその妙なロジックのおかしさには自分で気づいていましたし、「たとえ自分に負荷がかかったって、やらねばならぬことはやらねばならぬのだ。そうしなければ自分だって成長できないし、子どもにも響いてゆかぬ」と決意を新たにしていたのですが・・・それだってどこかに悲壮感があるというか、「子育ては大変」という大前提から出発している感が否めません。しかし本書を読んでいるうちに、「その語法は本当につい最近出てきたものにすぎないのだ」ということに気づきました。そう、ほんの数十年前の日本には、そのような決意や覚悟以前に「赤ちゃんのために、手をかけてあげたい」というごくごく自然な思いを持って語られる「喜びの」語法が存在していたのだ・・・それが私にはどういうわけか衝撃的で、私(たち)はいつそれを失ってしまったのだろうか、と愕然としたわけです。まぁおそらく「近代的自我」というやつのせいなのでしょうが、悪者探しをしていたって仕方がない。これはもう、「自分」とか「自分の都合」というものに縛られがちであることを認めつつ、それでも客観的に自分を見つめる目を養ってやってゆくよりほかないのでしょう。そして本書の言葉をかりれば、育児を通して「弱い人を助け、共感する」能力を学び、そこから喜びを見いだせるようになれることを願うしかないのかもしれません。

それにしても。「現代の母親たちは『楽な』育児の中でもがき苦しんでいるのかもしれない」「『子育ては大変』だから『少しでも代わってあげられる方法を用意する』という流れになっている。確かに大変であるが、そこに喜びを見いだせることも事実である。その『喜び』を見いだす方法や、『喜び』そのものを伝えることこそ大切に思える」と本書にあったのですが、これはかなり私の実感と合致します。そう、私も子育て中にずいぶんと精神的に「やばい」、つまり殆ど病的な状態であったこともあったのですが、そこから本当に立ち直ることが出来た、と思えた時というのが、「大変だからもっと楽していいよ。代わってもらったらいいよ」と言ってもらえた時ではなく、来年から通わせる予定の幼稚園の先生から「親としてもっと頑張りなさい」というメッセージを受け取った時だった。そしてそこから少しずつ力を取り戻す過程で、素晴らしい自主保育の場に出会い、ようやく子育てというものを引き受けることができた。それは「私のかわりになってもらう」という形ではなく、よい保育者と出会うことで「子育てに喜びを見いだす」方法を間接的に学ばせてもらったり、子どもへ惜しみなく愛情を注ぐ人たちの存在に私自身が力づけられ、それによって子どもへ向ける眼差しを変えることができた、そのような形で私は、大げさな表現をしてしまえば「ようやく『自分』中心の子育て地獄から一歩踏み出すことができた」ように思うのです。ええもちろん、それは小さな一歩ですから、まだまだなのですが。

大体、「ストレスにならないように」「負担にならないように」とよく(自分に)言いがちなのですけれども、そもそも「手をかけてあげたい」という思いを出発点にできれば「ストレスをものともしない」「それを負担にも思わない」ようになるものなのでしょう。自分の中の限りある資源だけを見ていたら、「大変だ、ストレスだ、負担だ」と言わなければなりませんが、果たして自分は限りある資源しか持ち合わせていないのか?いや、そうではないですよね。他者、それも目の前の弱い存在に寄り添い、手を差し伸べてやりたい、出来る限りのことをしてやりたいという思いは、おそらく自分の中から力をどんどんと引き出していけるはずなんです。そういう「溢れる泉」になれる可能性を秘めた存在として、自分を信じなければならない。それが、しんどい時には出来なかったのです。

もちろんしんどい時には、自分自身のことを振り返って考えてみても、ゆっくりと休養することが必要だと思います。しかし少しお休みしたそのあと、「大変だから、頑張らなくていいよ」ではなくて、「大変なことの中から喜びを見いだせる方法を、みんなで一緒に考えていこうよ。目の前の子どもにうんと手をかけていこうよ。」というメッセージを、自分にも、そして周囲にも送っていきたい。今はそう思っています。

そして「おむつなし育児」というのは一つのきっかけ、一つの方法論にすぎません。目の前の子どもに手をかけてあげよう、子どもをよく見てよく聞いてよく感じて、自分の頭で考えて判断しよう、その積み重ねの中から喜びを見いだそう。そういうことなのだと思います。ですから赤ちゃん時代の排泄だけではなく、言葉のつたない幼児とのコミュニケーションや、まだまだ自立していない日常生活のそこかしこに「ていねいに手をかけてやるべきこと」はたくさんあります。私はずいぶんスタートが遅れてしまいましたが、まぁ気づけただけよかった、と思うことにして、遅ればせながら自分なりの歩みと方法で向き合っていきたいと思います。

そんなことをぽつぽつと考えているところ、自主保育のお母さんたちと幼稚園選びのことでお話していた時のこと。幼稚園選びのときに「園バスのないところで探した」「あっ、私も」なんていう会話を聞いて、「あぁここにも手をかけたいと思うお母さんたちがちゃんといるんだなぁ」とひどく感心してしまいました。私自身は結果的に「園バスなしの幼稚園」を選びましたが、正直なところそれは「園バスがないところがいい」というような積極的な選択ではなく、「いいと思った幼稚園に園バスがなかっただけ」なんです。しかし「小学校に行ってしまったら送り迎えなんて出来ないし、してあげられるのは今だけだから」というような理由で積極的に選んでおられるお母さんがいらっしゃることを知り、頭が下がる思い・・・あ、また「育児は大変」語法になってしまったので喜びの語法にチェンジさせますが、そうなんですよね、今しかしてあげられないことをさせてもらえる贅沢っていうのがあるんですよね。三砂ちづるさんも本書で「大人になるとはどういうことか。おそらく大人になる、ということは物事には限りがあるということを知ることではないか。自分の命はいつか終わってしまう、限りあるものだ、ということを知ることだ。過ぎていく時間への悲哀。変わっていくものへのいとおしさ。そういったものを身につけたとき、人は大人になる、と思う。子育てが際限のないつらい苦役である、母親にとって子育てが大変な負担である、と言う考え方は、それが永遠に続く、という考え方に担保されている。ずっと続くのだから、どうやってのがれようか、という発想になる。しかし、続かないのである。現実には続かず、また取り返しもつかない。そのことは悲しく、切ないことである。子どもを育てる、ということは、一人の大人の人生のほんのわずかな時間にゆるされた貴重な機会である。もちろん子どもを育てる年齢の母親は大変に忙しい時期なのであるが、子どもとのかかわりから多くを学ぶことができるこの時期に、全てを負担という言葉でくくることはとてもできない」とおっしゃっています。そしてたまたま同時期に読んだ内田先生の著書にも、こんなことが書かれていました。「親子関係も、テンポラリーなものじゃないですか。親と子が関わる時期ってほんとに短いです。テンポラリーな関係だと思っていると、取り返しがつかないでしょう。18になったら出て行っちゃうわけだから、そのあとでごめんねっていうわけにいかないから、いっしょにいる間には失敗しないように気をつけてました。家族関係が人を傷つけるのは、後で何とかなると思っているからでしょう。あと3日で死ぬという人に向かって、お前生き方変えろって言う人はいないでしょう。そうなってくると、この人はあと3日間をどうやって楽しく生きられるだろう、そのために自分は何ができるだろうってふつう考えるじゃないですか。親子だって、同じだと思うんです。」限られた時間の中で、考えうる具体的なことを一生懸命する。「おとな」になれ。手をかけろ。そこからしか、子育ての喜びは得られない。そんなふうなことを立て続けに言われたような気がしています。

ここまできてわざわざ言う必要はないかと思いますが、もちろん「園バス」の有無が幼稚園の善し悪しを決定するものでもなく、また園バスを利用する子どものお母さんを「手抜きだ」と非難するわけでは決してありません。それぞれの家庭に、それぞれの事情がある。その事情の中で、「二度と戻らないこの時に、こうしてあげたい。こうしたい。」の中から「できること」をしていく、そのことの尊さについて語りたかった。そしてその選択は「理想の母親像」のためでは決してなく、与えられた状況の中で今この時にしか出来ない、子どもとの時間を慈しむ思いからの選択であり、その選択が出来ることの幸福・・・つまり「自分」や「自分の都合」、あるいは「あるべき母親像」「マニュアル」などに囚われずにその選択ができることの自由と幸福について語りたかっただけです。ただそれだけのために、園バスの例を出しました。願わくば幼稚園生活がスタートしたあと、送り迎えをしながら「こんなことをさせてもらえるのは今のうちだけだもんねぇ。ありがたいねぇ。」と言っている自分に出会えますように。その幸福な「喜びの語法」が自分の身につくことを、願ってやみません。