強いばあちゃんから学ぶ

明日は仕事で更新できなさそうなので、事前投稿させて頂きます。

先週私と娘は、約半年ぶりに東京の(私の)実家へ帰省して参りました。その帰省中、基本的に「強いばあちゃん」に、甘ったれ&わがまま孫娘はビシバシ鍛えられる、鍛えられる・・・その様子を自身のブログに書いたのですが、その後また考えたことがあったので記事としてまとめてみました。まずは、ブログの記事から一部抜粋いたします。

日頃から「歩かせよう」とは努力しているつもりなのですが、甘ったれさんは全然歩きたがりません。ちょっと歩いては「抱っこ〜」ですし、ひどい時には全然歩く努力なしに「抱っこ『だけ』〜!!」と泣いて地団駄を踏む始末。今回帰省の折りにもおばあちゃんと3人で出かけたのですが、バスをおりた途端に「抱っこ!!」が始まり、全く歩こうとしません。その場で地団駄を踏んで泣き叫び、挙げ句の果てにはその場に泣き崩れて寝転がる。そんな孫娘の様子を見ておばあちゃんは呆れ顔、「歩かないなら帰るわよ。」とにべもなく告げます。そして私に「歩かないなら帰る。歩くならこのまま出かける。泣き止んで落ち着いたら、ちゃんとどちらかを選ばせなさい。もう何でも分かってるんだから。」と言って、泣くにまかせてじっと待ちつづけること30分。しかし泣きやむどころか、「おしっこ〜!!」と言いながら大号泣のためのおもらしもしてしまい、私はすっかり「とほほ」な気分。通行人の多い、大都会東京のとある駅の改札口での出来事ですから、色々な人の目だってそりゃあ気にもなります。特に中高年の女性は「あらあら、どうしたの?」と声をかけていって下さいますし、こちらは被害妄想的に冷たい視線を感じざるを得ません。そこで「もうこれだけ泣かせたらいいだろう」と思って子どもを抱きかかえると、おばあちゃんは冷静に「だめ。それをするからいつまでたっても分からないのよ。結局泣いたらどうにかなるって思っちゃうでしょ。降ろしなさい。」と言う。うーん、強い。そこでまたしばらく泣かせていたのですが、彼女の「抱っこして、出かける。歩かない!!」という主張は全く変わらなかったため、おばあちゃんは「一度家に帰ろう。そうしないと、歩かなければお出かけはできないってことが分からないわよ。何度か繰り返したら分かるでしょ。」と私に言うのです。正直私は「ええ〜、ここまで来たのにまた家に帰るのは嫌だな。」と思ったのですが、おばあちゃんの意思はかたい。仕方なくあばれまくる娘(げんこつで叩いてくる始末)を抱えて、家へと向かうバス停に引き返していったところ・・・バスが見えるなり、ぴたりと泣き止んで「歩く!!!」と言い始めたこ初々さん。これには私がびっくりです。以来、歩く・歩かないでごねることが殆どなくなり、あれほどの抱っこ生活だったのに、今ではしっかりと歩く子どもになってしまいました。そして時々人差し指を一本立て、「ちょっとだけ抱っこして」と言う娘がちょっぴり可哀想でもあり愛おしくもあります。そう、「ちょっとだけ(その場で)抱っこ」してあげるだけで満足して、また再び歩き始めるのですから。

いやしかし「寝ない!!」騒動でも思いましたが、やはり子どもの気持ちに共感しすぎてもだめですし、「子どもの主張を受け入れる、受け入れない」という「枠」はすごく大切なのだなぁと思います。歩かせることがいいことなのかどうかという議論は置いておいても(別に手があいているのだから抱っこしてやってもいいという考え方だってありますよね。ずっと甘えているわけではないですし。)、子どもの中に生まれるわがまま心や甘えたい心がエスカレートしていくのは、おそらく子ども自身だってしんどい。それらがどこかで「ごつん」と枠にぶつかって、しゅるるるるる・・・と収められるほうが、「どこまでもどこまでも行ってもぶつからない」よりいいのではないか。まぁそれは人の欲望だって同じことが言えるわけで、「与えられたものの中でやりくりしよう」と思うか「もっともっと」と思い続けるかどうかで、精神的な安定はずいぶんと違うような気がします。もちろんその枠は小さすぎても大きすぎてもいけないでしょうし、そこが親のさじ加減に委ねられるのが難しいところなんですけれどもね。しかも「子どもひとり、貧乏というわけではない」という状況では、「親が頑張ればいつでも抱っこしてやれるし、欲しいと言うものを本当に買うことが出来ない経済状態でもない」わけですから、外的な制約が枠として機能しないため、「親がその都度枠を設定し、意思を持って運用する」しかありません。これが「子だくさんで抱っこもしてやりたくてもしてやれない。買ってやりたいけれどお金がない。」という状況でしたら、自ずと枠が設定されてしまい、親の決断や意思が問われるわけではないので楽と言えば楽ですよね。・・・もちろん、それが現代的豊かさの代償なのですが。

そして、家へと向かうバスを見た途端に「歩く」と主張を覆した娘を目の当たりにして、枠の設定とともにそれを「本気で」運用することの重要性をしみじみと感じました。きっと「歩かないなら帰るよ」と言っている内は、「泣いたらどうにかなるだろう。」という「交渉の余地」を感じていたのでしょうね。しかし実際にバス停へ向かって本気で帰ろうとしているのが分かり、「これはもう交渉の余地がない」と諦めた。おそらくいつでも駄々をこねている時には、親の「本気」をはかりながら、自分の「本気」をアピールしているのでしょうねぇ。つまりは「本気」合戦。そう思うと、「本気を示す」術をこちらが身につけなければならないと痛感するに至りました。もちろんそのためには感情的になったりせずに、常に冷静に子どもの前に立つ必要も出てくるのですが。


そしてこの記事を書いたあと再びつらつらと考えているうちに、とあるエピソードを思い出しました。どういうわけかカフェに入ると「お隣のお話」を聞いてしまう(そして楽しんでしまう)という変な趣味を持つオットから聞かされた話なのですが、それは喫煙をめぐる、あるよそのお母さんの見解でした。

タバコは子どもにとってよくない、ということは分かっているけれどもやめられない。でも、タバコをやめてイライラするよりは、タバコを吸っているほうがいいと思う。


これを聞いたときには、正直なところ私の胸はドキン、としました。そしてまずオットに言ったことは、「私もそのロジックの落とし穴によくはまる気がする。」ということ。子育てを始めてからというもの、「家庭の中の太陽であるお母さんが機嫌よういるのが一番だ」と公言していましたし、それはその通り事実だと思うのですが、それはそのまま「お母さんでいる自分が機嫌よういるために、本当はせねばならないことを放棄していい、あるいは努力しないで楽をしていい」というわけでは決して無いのですよね。それなのにふと気づくと、「自分が機嫌よういること」が最上の目的になってしまい、大変なこと、努力が必要なことを回避するようになる。そして挙げ句の果てには、「そんなに頑張ってイライラして子どもにあたるよりは、このほうがいいのよね」と自分を正当化してしまうというのがこのロジックの落とし穴。本当は、「大変なこと、努力が必要なことを機嫌ようできる」私へと成長するためにこそ「お母さんは機嫌よういるのが一番」と言わなければならないというのに。

何でこんな話を思い出したのかというと、母が泣き叫ぶ孫娘につき合いながら「あんたも自分が親として成長できないでしょ。」なんて言ったから。まさか母の口から「自分の成長」なんていう言葉が聞けるとは思っていなかったので(そういう哲学的な?命題について考えるようなタイプの人ではないので)ずいぶん面食らいましたが、あぁこの人は子どもを前にして『親』たろうとしていた(る)んだな、ということに初めて気がつきました。子どもにとって最善と思われることをするためには、自分の都合に左右されない、あるいは自分を犠牲にできる『親』。母はそんな『親』たろうとしていたのでしょう。もちろんそのやり方に関しては色々と問題もあったでしょうし、間違いだっておそらくあった。しかし子どもの前に『親』として立とうという決意と覚悟に関しては、やはり敬意を払いたいと心から思いました。泣き叫ぶ孫娘に「歩かないなら帰る」と言って一度帰ろうとした母にひきかえ、私は「え〜一度帰るなんて面倒くさい」とものぐさなことを思いましたから、どう考えてもまだまだ私自身『親』になれていませんからね。

ところで「犠牲」なんて今どき最も流行らない言葉ですが、そういえばおにぎりを握ってたくさんの人を癒す佐藤初女さんもこんなことをおっしゃっていました。「犠牲というと今の人は嫌いますよね。もっと別の言葉で言い換えるなら、誰でもできる一線があります。その一線を超えるか超えないか、ということです。超えるなら新たな世界が開かれます。そして一線を超えた人の行動は人の心に響くのです。」・・・きっと『親』になるためには、今の私に出来ること、その「一線」を超えないといけないのでしょう。そしてその一線を超えられたら「新たな世界」という成長が待っている。さらにその成長してゆく姿は、きっと子どもの心にも響くのだろうなぁ(そうでなければ、子どもには届いてゆかぬのであろう)、そんなことまで考えた今回の帰省でした。