貝は剥き身なく

墓に脱皮ときましたね。さすがお盆翌週のエントリー。
書くつもりもなかったことを、つられて私も書いてみます。

大事な大事な親友が、人非人の私に常にその広くあたたかな心を開き続けてきてくれた女の子が、がんになりました。今週の話。同世代で、子どももいます、そりゃもう奇跡のように可愛らしく賢い女の子が。

私にはなにもできない。彼女の身代わりにはなれないし、もし「いや、できるけど。やる?」と言われたら、やっぱり躊躇するくらい、「他人事」。でも、彼女にこれまで支えてもらったように、「友だちとして」、たぶん家族や親とは違うところで、寄り添っていることはできるだろう。それを「とことん」やる。それしかできない、でも、それだけは全身全霊を傾けてやるよ。やるからね。涙の出てくるところにフタをして、いまは全力でそう考えているところです。

それで思い出したことがふたつ。たしか初々さんがしばらく前のエントリーで書いていた「最近のテーマは、『惜しまない』こと」。違ったかな。「力を出し尽くす」だったかな。こんなちっぽけな私に、いったいなにを惜しむことがあろうや。よしんば出し切ったとてそれは相手を満足させるほど充分なものではなかろうに。それに、私も力尽きて死ぬこともないのにさ。まだまだ、娘と一緒にいる時間などできるだけ楽をしちゃおうとするのだけど、でもこれから志向あるいは試行あるいは思考するのは、「鯛のお寿司なく」もとい「貝は剥き身なく」また間違えた、「愛は惜しみなく」、だ!!

もうひとつ、これは吉本隆明が言っていたこと、の、やっぱりうろ覚え。家族論にて。子どもがグレたら親はどうすればいいのか。たとえばもし子どもが刑務所に入れられたら、じゃあ自分も一緒に刑務所入るよ、と。すぐ隣で、同じ世界を見ながら、とにかくとことんつきあうよ、と。それしかないんじゃないか、とね。家族をふくめ大切な隣人に、逃げずにとことんつきあうひと。そーいうものに、わたしはなりたい。なんてわざわざ思うのが、基本が人非人の証拠なんじゃがね。

ともかく彼女にはとことんつきあわせてほしいと申し込んでいるところ。勝手だけど、一緒に頑張らせてくれ。親友の役割を、引き受けさせてくれ。あとで一緒に、この「悲愴な覚悟」を、笑い話にしよう。な。