脱皮

少し前のことになるのだけれど、歩道の真ん中で蝉の幼虫を拾った。北大路橋にかかる少し手前。近くに樹木はあるとはいえ、舗装された歩道の真ん中で蝉の幼虫に出会う、などということは非常にまれなことに違いない。蝉は、車道に向かって歩いていたから、放っておけば確実に死んでしまっただろう。もちろん、近くの桜の木に戻してやることも出来たのだけれど、都会育ちの奥さんと子どもに見せてやろうと拾い上げて帰ってきた。
私は田舎育ちで、子どもの頃(今でも)裏庭に出ればすぐに10や20の蝉の抜け殻を集めることが出来る。しかし、蝉は夕方から夜にかけて地中から這い出し、その夜のうちに脱皮をしてしまう。しかも、脱皮はものの十数分で終わってしまうので、蝉の抜け殻はたくさん見ても、その幼虫を捕まえ、脱皮を観察できるのはそんなに何度もあることではない。


とはいえ、子どもの頃から何度か、蝉の脱皮を見てきたわけで、今回捕まえた幼虫に対して自分が何をすべきかは分かっていた。それは2つ。1つは脱皮するためのしっかりとした足場を用意してやること。もう1つは決して触らないこと。蝉の幼虫は自分が納得する足場を見つけるまでは決して脱皮を始めない。成虫になって皮膚が硬くなった蝉は、樹の葉や幹に少々ぶつかったってたいしたことはないのだけれど、脱皮途中から脱皮後数時間は皮膚が非常に柔らかい。もし脚が離れて下に落ちでもしたらそれで終わりである。だから蝉は、脚のツメがしっかりと引っかかる場所を探すのだ。そして二つ目、触らないこと。写真を見ていただければ分かるように、蝉の脱皮直後の姿は宝石のように美しい。この美しい宝石を手にとって見たい、という欲望を、子どもは抑えることができない。脱皮した蝉につい手を伸ばす。柔らかい蝉はしっかりと足場に脚をかけているので、足場から無理に離そうとすると、脚がもげたりする。脚先だけが足場に残るのだ。成虫ならば脚が一本欠けたって死んだりしないのだが、脱皮直後の蝉は、そのもげた脚先から体液が流れ出てしまう。たとえうまく引き離せたとしても、手に持って眺めているうちに羽先を傷つけてしまい、そこから体液が出てきて、結局朝になると死んでしまっている。こんな失敗を、何度か繰り返して、脱皮後の蝉には決して触れてはいけないことを学ぶ。


子どもの頃から、何度か蝉の脱皮を見て、いつも思うことがある。蝉の幼虫は、「脱皮」という行為を自身ではどのように感じているのだろう。きっと、「自分は今から脱皮しておとなになるんだ」なんてことは思ってないだろう。それどころか、自分の背中が突然割れ始めるのだ。外側の自分と内側の自分が分離するのだ。自分自身に何が起こっているのか、たぶん蝉自身にも理解不可能なのじゃないだろうか。ものすごい恐怖に違いない。まさに、自分が自分でなくなるような感じ。「ああ、ぼくはもうこれで死ぬんだ」くらいのことは思っているだろう。一瞬気が遠くなる。そして、ふと気がつくと、過去の自分と確かに連続していながら全く新しい自分の存在に気がつく。「あれ? 羽なんかあるぞ。飛べるぞ。大きい音も出せるぞ。(複眼で)光を感じるぞ」なんてね。
もしかしたら、自分が死ぬときも、こんな感じなのじゃないかなぁ、そうだといいなぁ、なんてことを子どもながらに考えていた。で、その考えは今もあまり変わっていない。

オット初々