キャンプへ行って思ったことなど

この夏の一大イベント、夏期キャンプへ行ってきました。そのキャンプは母子通園している自主保育主催のもので、在園児だけではなく卒園児とそのお父さんお母さんたち、病気の子どもを守る会の役員さんたち、ボランティアのお兄さんなど参加者は総勢60人以上!この大所帯の1泊二日お泊まりキャンプを企画運営された先生がたには頭の下がる思いでしたが、私たち親子みんながそれぞれに楽しい時間を過ごさせて頂きました。これから毎年こんなに楽しいイベントに参加できるなんて嬉しい・・・そう、この自主保育の魅力は、在園児(とその家族)も卒園児(とその家族)も、(望めば)そのつながりを持ち続けることができること。卒園したお母さんがたが給食のお手伝いに来られることもしばしばですし、卒園児が幼稚園のあとに遊びにくるのはいつものこと。幼稚園へ行っても、小学校へ行っても、自分の今の生活とは直接(利害)関係のない「魅力的ないいおとな」が身近にいるというのは素敵なことだなぁと思います。なのでこ初々さんが幼稚園や小学校でうまいこといかなくて、「せんせーい」と気軽に会いに行き、「こ初々ちゃーん。ようこそ〜。よく来てくれたね〜」と迎え入れてくれる先生がたとお母さんがたがいる・・・という状況を妄想して、「この地域を離れられん・・・」と強く思うのでした。

おっと話題にしようと思っていたこととすっかり違うことを書いてしまいました。さてキャンプでは、こ初々さん人生初の「大きなプール」を体験。股つきの浮き輪でぷっかりぽっかりと水に浮かぶのを驚くほど喜んで、二度目にプールへ入る前など水着を着て浮き輪をしっかり持って「プール、プール〜♪」と浮かれまくり・・その「早くプールで泳ぎたい!!!」というプールへの大きな期待といいますか、プールを心待ちにするはやる気持ちを目の前で見ていると、「あぁ子どもの時って、プールがすごく楽しみだったよなぁ」と子どもの頃の感情を思い出しました。そして子どもの頃、そんな私たちのためにしょっちゅうプールやらアスレチックやら何やらと、色んなところに連れて行ってくれた母のことを思ったのです。というのも子どもにとってプールは楽しいだけですが、子どもと一緒にプールに入ってみるとこれが思いのほか「疲れる」んですよねぇ。いやプールに入っている時には涼しいですし疲れを自覚できませんが、プールからあがりリラックスモードに入るととたんに「どどー」と睡魔が襲ってくるほど疲れている。しかしもちろん子がいればそのまま眠りにつくなんていう幸せなことは出来ませんので、眠くてだるーいまま日中を過ごすことになります。そんな中で「子どもを遊ばせるっていうのも大変だよなぁ」と改めて思い、あちこちへ遊びに連れて行ってくれた母の「パワフルさ」を実感したのです。まぁ子どもを遊ばせること以外でもとにかくパワフルな人なのですが、自分が同じ立場にたってみると「とても真似できないよ」と敬意にも似た気持ちが涌いてくるものですね。

ところで私の成長過程には家族内で色々な出来事があり、私はどちらかというと母に対しても批判的な眼差しを向けていたように思います。もちろん今でも納得できないことは多々ありますが、それでも今回のようにパワフルにあちこちへ遊びに連れて行ってくれたことを思い出すと「すごいなぁ。子どもたちのために、母は母なりの方法で、精一杯やってくれたんだなぁ。」と思わずにいられません。正直に白状してしまえば、おそらくこれまで私はその精一杯の努力を「努力の方向性が間違っているんだよ」といって認めていなかったと思うのですが、今ではちょっと口がさけてもそうは言えない。だからといって母の努力をそのまま100%肯定して受け入れるかといったらそれもできないのですが、その努力の是非を問うことが私にはできなくなったんですよね。とういのもきっと、その努力のエネルギー源が何であるのか(どういうものであるのか)を子どもを産み育てる中で知ってしまったから、だと思います。「それがあるんだったら、まぁいいや。」・・・これが赦しというものなのかどうかは分かりませんし、そんな高尚なものではないのかもしれませんが、時が経ちライフステージが変わることで「どーでもよくなる」ことがあるのだなぁとつくづく思います。これは結婚するまで殆ど絶縁状態だった父に対しても言えることで、その絶縁状態が「殆ど」であってよかったとさえ今は思っているんですよね。完全に関係が切れてしまっていたら、「どーでもよくなる」時が来ても関係を回復させることは出来ませんから。なので何があっても「親子の縁を切る!」なんて言わないように(言わせないように!?)しよう・・・

しかしそう考えてみると(かなり無理のある繋ぎ方のように思われるかもしれませんが)、内田先生が最近のブログで「精神医療は拠点を石垣島へ持っていくのがよい。人間、ほっこりと浜辺でくつろぎ、潮風になぶられつつ、ヤシの木陰でピニャコラーダを飲みながら同時に厭世的になるような器用がことはできない」と書いておられて、それはその通りだと思うのですが、そうやって「何もせずにほっこりと」よりは、人間「問題をどーでもよくなるまで棚上げして待つために」「『自分』以外の」(ハードな)役割を与えられることのほうがいいような気がするような、しないような・・・これは好みの問題かしら。