先生を前にして醜く浮かび上がった自分

以前にも書きましたが、この4月からこ初々さんと二人で、病気の子どもたちのための自主保育に週2日通っています。といってもこ初々さんは元気なのですが、一部こうして病気ではない元気な子どもも受け入れて下さっているんですね。近所の教会のお部屋とお庭をお借りし、朝10時半に登園するとまずは出席ブックにシール貼り。こ初々さんは「おはよ〜!」と笑顔で出迎えてくれる先生のところへまっしぐらに行き、通園カバンから「おちょうめん」を取り出してシールを貼ります。これが毎回楽しいらしくて、夜に帰宅するオットに必ず「おちょうめん」を見せて、どこにシールを貼ったのか教えます。さて園での生活の続きですが、10時半から1時間は自由遊び。たいてい今の季節は、お外で元気にお砂場遊びや水遊びをしてどろんこになります。その後お部屋に入って「おへんじ、はい♪」の歌を歌って出席をとるのですが、小さな子どもたちが先生の前に座って「おへんじ」するのを待っている姿というのは・・・本当に可愛くて、毎回ノックアウトされます。それはさておき、出席が終わると季節に合わせた歌や手遊びをいくつかして(これもまた可愛すぎます。今は「おおきなたいこ、ちいさなたいこ」と「さかながはねて」。たぶん昔からあるオーソドックスな歌たちで、そんなところも大好きです)、それから小さな工作。今はちょっとずつ七夕飾りを作っているところですが、ほとんどの部分は先生がたが作って下さっていて、子どもたちはクレパスでお絵描きをする程度。先生がたはみなボランティアでされておられるので、そのご苦労にはいつも頭が下がる思いですが、これもまたシンプルで素敵なものばかりなので、そのセンスのよさに惹かれてしまいます。そんな楽しい時間のあとには、これまた美味しい給食が待っているんですねぇ。この給食もまた全てボランティアのおばさまたちと子どもたちのお母さんがたで作るのですが、今回はその給食作りをきっかけに気づかされたお話。(前置き、ながっ!)

この給食作りは子どもたちが自由遊びをしている時間から始まるのですが、子どもと離れられるお母さんたちはみなお台所の仕事をお手伝いすることになっています。通っている子どもたちの月齢も様々ですし、通っている期間もそれぞれ。ですから「離れていても全然平気〜」という子どももいれば、「ひっついてひっついて離れない」子どももいます。で、我が子こ初々さんですが・・・これがなんとも、「見かけより、全然離れられない」んですよねぇ。この「見かけより」がポイントなのですが、私が近くにいれば(つまり見えるところにいれば)機嫌よう先生やお友達と遊んでいるんです。しかしちょっと私の姿が見えなくなると「おかあちゃーん」と探し始めて、見つけると「一緒にあそぼ」と言ってきかない。こ初々さんはしっかりとした子に見えますし、外では大泣きしてごねるということもなく機嫌よう遊んでいますから、「全然離れられそう」に見えると思うのですが、地味に離れられないというのが実情でして・・・ですからお台所のお手伝いに行きたいと思うのに行くことも出来ず、そしてこれが私の弱いところですが「お手伝いが出来そうなのにしてない」と見られていたらどうしようという気持ちもあり、「どうしたらいいんだろう」とこっそり悩んでいました。もちろん「出来るひとがしたらいいんだから」とほかのお母さんもおっしゃってくれていますし、私もそう思うのです。それなのに、「人目」が気になる私・・・本当はこんなこと公言したくないのですが。

そんな折り、先生がこ初々さんの相手をしっかりみっちりとして下さる機会があったので、お台所のお手伝いに入りました。ほんの少しの間お手伝いをしていると、先生がこ初々さんを抱っこしながら「おかあちゃん、あそこにいるよ〜。わたし、頑張ったよ〜」と迎えにきてくれました。そのようにちょっとずつですが離れられるようになってきたある時、先生がこうおっしゃったのです。「こ初々ちゃんはマンツーマンで遊んであげられる時には大丈夫なんだけど、(先生)一人にみんな、というふうになると心配になってきちゃうみたい。でもその時にすぐにお母ちゃんのところへ連れていってあげて、『おかあちゃんにいつでも会えるんだよ』ということを保証してあげる、ということも今してみているんです。」その時は「あぁやっぱりそんなふうな意図で、丁寧に対応してもらっているんだなぁ・・・有り難いなぁ。」と思うにとどまっていたのですが、またしばらくしてのこと。お砂場で先生と機嫌よう遊んでいるこ初々さんを残して、「ちょっと台所へ行ってきていいいですか?」と先生に尋ねると、先生は「(本人に)聞いてみたらどうですか?」とおっしゃいました。うーむ、本人に聞いたら確実に「だめ」と言うに決まっているんだけどなぁと思いながら、「お台所にお仕事行ってきていい?」と尋ねたところ、やはり「だめ」・・・そういえば登園するときにも「お仕事行っちゃだめだよ」と念をおされていたなぁ・・・そんな話を先生にすると、「そうかぁ・・・今までもずいぶん辛かったんだね。そっかそっか・・・」とおっしゃったんです。これには何だか、胸が突き刺さるような思いがしました。何故って「人目が気になって、『離れられなくて困る』と思っていた私」が「子どもの気持ちを最優先に考えている先生」を前にしてあまりにも醜く浮かび上がったからです。正直なところ、「日頃これだけずっと一緒にいるんだから、もうちょっと離れてくれたらいいのに」とは思いこそすれ、おかあちゃんを探しにくる我が子の心中のことなど大して気にもとめていませんでした。でも・・・考えてみたら、別に「母子分離」のために通園しているわけではありません。親も子も、楽しく機嫌よう過ごせれば一番よいのです。その中で、子どもが「ちょっぴりお母さんと離れる時間が過ごせて、そのことを誇りに思って自信がつく」というおまけを体験できたら素敵なことだ・・・おそらく先生が子どもをお母さんから少し離すようにお手伝いして下さっているのには、そのような思いがあるからなのだと思います。それなのに私は「隙あらば離れよう」としか思っていなかったのですから、なんとも情け無い話です。こうして「主役は子ども」という場所で、自分の都合をいったんどこかに置いておき、子どもの気持ちを一番に考えてやることができていなかったことを、いたくいたく反省したのでした。

それからでしょうか、子どもに向ける眼差しがほんの少し優しくなったのは。もちろんそんな時ばかりでもないですが、「まずは、この子の気持ちを汲もう。(どうしても聞いてやれないこと以外は)」と思うようにすると、何となく気持ちにゆとりが生まれました。「そんなこと当たり前じゃないか!!」とお叱りを受けてしまいそうですが、未熟な私は今まで「そんな当たり前のこと」がちっとも出来ていなかったのです。それもおそらく、無自覚に。相変わらず夜ちっとも寝ない我が子(寝かしつけに3時間近くかかる)に「なんで寝ない!」と憤り続けて苦しかったのも、「自分の都合(自分が眠いとか、用事が山積みだとか)ばかり」考えていたからなんだと思います。でもそこは、「眠い自分を何とか誤摩化し、用事だっていくらでもあとで出来るさ」と思って自分の都合を棚上げにすることが出来るのが、成熟したおとな。夜になってくると疲れてそんな「よい母親」マスクがはがれかけてくるのが辛いところですが、これも修行ね。タフにならなければ。そんなふうに「自分が変わる」と、あれほど苦行だった寝かしつけもさほど苦にならなくなり、こころなしか寝かしつけ時間も短縮傾向にあるように思います。きっと子どもの強烈な「寝ない!!」は、「自分のことばっかり考えてないで、こっち見てよ!」というメッセージにほかならなかったのだろう。そんなふうに今は考えています。

いやしかし、内田先生が「よい教育とは、それを受ける前後で全然別人になるということだ」というような趣旨のことをおっしゃっていましたが、子育てもまさにそのような感がありますね・・・特に子ども相手ですと「子どもを変える」ということが出来ないので、自分が変わるよりほかない。そう思えば子育てというのは素晴らしい成熟の機会であり、「喜んで享受しよう」と思えるといいんですけどね、まだまだ苦しい修行のように感じるわたしです。