おばちゃんとは

泣き虫の甘えん坊。娘のことをずうっとそう思ってきたのですが、「どうもそれだけではないらしい」ということに最近気づきました。というのも、同い年の仲良しのお友達に対して、「余計なお節介おばちゃん」的振る舞いをするのです。帽子をひょいと脱いでしまったお友達の帽子を拾って、「帽子かぶって〜。かぶらないとあかんよ。」と追い回してみたり、階段近くでお友達の行く手を阻んで「あぶないよ〜。」と言ってみたり、別に呼んでもいないのに「○○ちゃーん、お母さんが呼んでるよ〜」と探しに行ったり。「いやん、もうそんな暑苦しい!」と見ていて思うくらいなのですが、人の振りみて我が身をなおせ・・・きっと私もそんなふうにおばちゃん的なのでしょう。・・・という話では今回はなくてですね、おばちゃんはおばちゃんでも、彼女の振る舞いはどう見ても「関西のおばちゃん」だなぁと思うのです。いや、関東のおばちゃんと関西のおばちゃんがどう違うのかというのは正直なところよく分からないのですが、見る限り「ぜんぜん関東のおばちゃんじゃない・・・」と思ってしまうんですよねぇ。なんなんでしょう?もしかしたら「おばちゃんという存在はみんな関西的」なのか?

そんなどうでもいいことを考えているうちに思い出したのが、田口ランディさんと鷲田清一先生の対談でした。その対談でランディさんが「関西弁はケア的」とおっしゃっていたことが、ふいに思い出されたのです。うーん、それすごく分かるんですよね。私は根っからの関東人なのですが、こちらで仕事をするようになると、ものすごい勢いで「関西弁がうつった」という経験があります。それは環境による影響というよりは、「それ以外の言葉では関係が成り立たない」というような切実なものだったのかもしれません。話をただ聞くときにも「そうですね」ではなんとなく居心地が悪く、「そうやねぇ・・・」としか言いようがない。「それはだめです」ではなくて、「それはあかんなぁ」とやんわり言いたい。しんどいんやぁ・・・と言われるのを、「大変ですね」ではなく「それはかなんなぁ」と聞くのが自然なような気がする。そんなふうに関西弁環境にいると、それ以外の言葉では「なんとなく語調が強い感じがしてしまう」「なんとなく他人事のようになってしまう」気がしてしまうんですよね。鷲田先生は「関西弁は、自分と他人のバリアが低い」とおっしゃっていましたが、私もそんなふうに感じます。「かなんなぁ」と自分のことのように相手の話を聞いて相づちをうち、やんわりと物事を伝える。それを「ケア的」と言っていいのかは分かりませんが、ケアにとってはちょうどいい言葉づかいなのかもしれません。

そして話は戻りますと、そういう「自他のバリアが低い」って、まさに「余計なおせっかいおばちゃん」なんですよね。だって、「その物事を自分のことのように思う」ことがなければ、余計なおせっかいなんてしませんものね。そう思うと、自他のバリアが低い(というよりは曖昧なのか?)子どもという存在はもしかしたら皆「余計なおせっかいおばちゃん」体質なのかもしれない???なんていうことまで考えてしまいました。ええもちろん、どうでもいい仮説なんですけれどもね。

村上春樹の新刊を熱心に読んでいるために、かなり無内容なお話しか出来ませんでした・・・