顔様なもの

今日の初々さんの「京都生活手帖」にもあるように、こ初々さんの描画がこの1ヶ月の間に急激に変化しました。ちゃんと絵を描くようになり始めたのが1歳前くらいからで、最初は、横線のみ。それから横線の往復。そして、1歳8ヶ月くらいから同心円的グルグルの丸がかけるようになって、それ以降はずーと変化がありませんでした。それが、先月の半ばくらいから、同心円的丸が画面にひとつだったのが、小さい丸が画面の中にいくつも現れるようになり、その2週間後には丸の中にさらに複数の丸が描かれ、構造を持った丸が登場したのでした。その数日後から、大きな丸の中に「めぇめ、めぇめ」、と言いながら二つの丸が描かれ、「くぅち」と言いながら、二つの丸の上、あるいは横、あるいは下に横棒が一本引かれ、さらに「みぃみ、みぃみ」と言いながら、最初の大きな丸の外側に小さな丸が二つ描かれました。さらに、そのような顔様のもの複数描かれ、それぞにれ、「おかちゃん」、「おとうちゃん」、「こ初々ちゃん」と命名がなされました。
その翌日には、顔様の頭の部分に「ぼーし」と言いながら丸が描かれ、さらに翌日には、顔様の下の部分に、なにやらクシャクシャとしたものを描きながら「お洋服」と言いました。




この描画発達の変化、「発達は直線的ではなく、相互に異質で独自の構造を持つ段階の変化として現れる」という、教科書の記述そのものを目の前で見せてもらいました。

こ初々さん絵の中で、ものごとが個別的に描かれ、それらの個々のものごとも、さらに構造を持ち始めたことから、こ初々さんにとって世界が"構造を持ったもの"として理解され始めている、のではないかと推測されます。そして、その構造は、共通の構造を持った「人の姿」についてであり、その共通の構造を持ちながら個別の存在である、「自分」と「父」と「母」であり、その3人で構成される集団、すなわち"家族"という構造物*1

もちろん、おそらくまだ彼女にとって世界は不合理で不条理で、混沌が満ち満ちているものに違いありません。世界には"摘んでもいい花と摘んではいけない花"があり、"おやつが与えられるときとおやつが与えられないとき"があり、"たくさん食べてほめられるときとたくさん食べて「仕方がないなぁ」という顔をされるとき"があるわけです。世界には先に出来上がっているルールがあり、後からやってきたものは、そのルールを学ぶ方法も知らされず、ただただ自らの行動に対して"「正解」か「間違い」か"という正誤だけがフィードバックされる。自分がこんな状況に置かれたら、ものすごくストレスフルだろうと思います。そりゃ癇癪も起こしたかろう、ごねたくもなろう。

そんな不合理で不条理で混沌に満ちた世界の中で、その不合理や不条理や混沌の元凶でもある父ちゃんや母ちゃんに自分を加えて、"家族"という構造から世界を理解し始めようとしているわが娘が、なんだか不憫で、そして愛しくてたまらないのです。


オット初々

*1:この構造には、しばしば、初々さんの友人である「あきちゃん」も登場します。こ初々のなかでは「あきちゃん」も"家族"なのでしょう。そしてそれは実際そうなのです