意外な解決方法

気がつけば、両親遠方母子密着24時間365日生活も3年目に突入しております。(とは言っても、オットに子どもを丸投げしてよく遊び歩いているので、きっと300日くらいにはなっているでしょうけれども、それはともかく。)周りを見渡すと、どんどんとそんなお母さんがたはいなくなり、どちらかというと保育園にも行かせず、一時保育も利用せず、「ずっと子どもと一緒」という親子は稀有な存在にすらなっているようです。私も進学のための受験準備もあったり、仕事をしたいなぁという気持ちもあったり、やはり「もうちょっと離れたいなぁ」という気持ちもあったりで、幼稚園の2歳児クラスを検討していたのですが、あれれ、どういうわけか最終的に選んだのは「母子通園」の自主保育。結局「子どもと離れて、ちょっとリフレッシュ」とか、「仕事の日数を増やす」「勉強時間を確保する」・・・いずれも叶わない、不思議な選択をしてしまいました。その選択をした当初は、そりゃあ「午前中丸ごと自由時間」が週に何度かあるという夢みたいなことへの未練はおおあり。「自己実現」なんていう幻想を押し付けられた世代としては、「自分のことがしたい」という欲求をそうそう抑えることが難しい。またちょうど1年前に子育てノイローゼのようなものにかかりかけた身としては、「私は、本当にこれをなせるのか?」という不安だってありました。そういった「もろもろ」とどう折り合いをつけてゆくべきか・・・そんなふうに固く考えていたのもつかの間、それは意外な形で、あっさりと問題解決してしまいました。

というのも・・・

自主保育がものすごく楽しいのです。本来は病気の子どもちゃんたちのための自主保育なのですが、一部健康な子どもの受け入れもしてくれ、病気や障害のある子どもも元気な子どもも一緒に遊んでいます。12人の子どもちゃんたち(+お母さんたち)のこじんまりとした園なのですが、保育の先生は常時4〜5人(全てボランティア)いて下さり、保育も手厚い。そして園では給食が出るのですが、給食の調理もボランティアさんがたがして下さいますし、子どもたちが使う通園カバンやエプロンなども教会のボランティアさんたちが全て手作りで用意してくださいました。そんなふうに、「病気の子どもも、元気な子どももみんなで育ち合う」場所にたくさんの方々が力を寄せて、形となっている保育・・・そのあたたかさは、なかなか言葉で表現することができません。関わって下さっている方々みんなが、「奮発する」どころの話ではなくて、他者のためにすすんで力を差し出しているその様子にも、とても敬服してしまうのです。

そんな場所と幸運にも巡り会えたおかげで、私の「子育てに関する悲壮さ」はずいぶんと薄らいだような気がしています。今まで幼稚園のプログラムに行っても、保育園の園庭解放へ行っても、あるいはお外遊びをしていても、どこか「(子どもと)遊んであげている」「(ながーい一日の)時間つぶし」のようでした。もちろんそれが全く楽しくなかったわけでは決してありませんが、今から振り返るとどう考えても「子どものために、してあげている」感が強かった。しかし今の自主保育は、「お休みするのが寂しい」と思うくらい、私が「積極的に」行きたいと思う場所なんですね。そこで素敵な先生がたとお話することや、素晴らしい保育の様子を見させてもらうこと、その保育で子どもが成長していく様子を見ること、ほかのお母さんがたとお話しすること、ほかの子どもちゃんたちの成長を見られること、おいしい給食を食べること・・・挙げればきりがないのですが、そんな全てが楽しみで仕方がない。「子どもと一緒に過ごす」時間が、そのようにカラフルになったというか、私自身が魅了されるようになってみると、「これからの1年大丈夫だろうか・・・」という不安というか悲壮さはあっさり吹き飛でしまい、「まさかこんな形で解決されるとは夢にも思わなかった」と目からウロコが落ちる思いでした。いやぁ、論理的にはこんな解決方法、なかなか見いだせませんよね。

そう考えてみると、本当にカナさんがおっしゃっておられるように、子育てのしんどさは孤独なんだろうなぁと思います。子どもとふたりきりでは、「子どもと一緒にいながらにして、自分もとっても楽しい」という状況はなかなか作れません。しかしそれを共有する素敵な仲間たちがいれば、あっという間にそういう状況を作れてしまうんですね。日本における現状の「子育て支援」の方向性は、どんどん「一時保育」という形で母子を離れさせる施策を強化する方向へすすんでいますが、それだけではない解決方法もあるのだ、ということを学ぶ機会となりました。

しかし私自身は出産後ずいぶん人との連帯を頭に入れてやってきましたし、おそらく地域や人とのつながりを持って生活しているほうだと思います。それでも、「足りない」。では何が足りなかったのかというのは、おそらく「よい保育者」の存在だったと思うのです。親戚友人知人にご近所の方々・・・そういう水平ラインのつながりはあっても、一歩二歩先から導いてくれるような人の存在というのはあまりなかった。しかし自主保育で素晴らしい先生がたに出会って、「あぁ、そういうことを見たり聞いたりしたかった」とすごく思いましたし、安心したのです。例えば私の姿が見えなくなって大号泣している子どもを抱っこして事情を説明している私に、「まずは、よく頑張ったね、えらいね、って言ってあげるといいよ。そうしたら涙もぴたっと止まる。」と先生が声をかけて下さる。何気ない一言でも、自信を持って伝えられたその言葉に「そうか、まずは気持ちを受け止めてあげなくちゃいけないよね」ということを気づかされたり。また先生と子どものやりとりから、「なるほど、そういうふうに声をかけてみるといいかもしれない」とか「だめだということを、こんなふうに伝える方法もあるのか」とヒントをもらったり、あるいは「子どもに『関心』を示すために、こんな方法もあるんだなぁ」と感心したり。子育てにマニュアルは必要ないと思いますが、自分の子育てへのヒントや知恵というのは、やはり子育て新米者として必要としていたのだなぁと、改めて思ったのです。子どもとの関わりのプロフェッショナルたちは、そんなヒントや知恵の宝庫なんですね。

そしておそらく「子育ての悲壮さ」軽減に最も関与しているのは、先生がた、お母さんがたのあたたかな眼差し、だと思っています。子どもに関心を持ってあたたかく見守ってくれている存在が多ければ多いほど、「ひとりで背負っている」感が和らぐのでしょうね。私もそんな眼差しを、多くの子どもたちに向けられるようになりたい。そう思いながら通っています。・・・と、かたーく締めくくりますが、5月は植物園ピクニックやイチゴ狩りにも出かけられて、わくわく楽しみ!というのが一番の心境です。

(おしらせ)
引越をしたケーススタディですが、地味〜に続けています。最新のものは「だだこねの落としどころ」について検討していますので、ご興味のある方、あるいはたくさんの「引き出し」をお持ちの方、ぜひぜひお立ち寄りくださいませ。それぞれの関わりから、自分の関わりへのヒントや知恵をもらいあえればいいなぁと思っています。