奮発する

「奮発する」
私のブログを読んで下さっている方は「またか・・・」と食傷気味かもしれませんが、最近私の中で俄ブームの言葉です。もともとは婦人の友社を創立した羽仁もと子さんの言葉(「(子どもが)よく勉強するとは、奮発してよいことを行うこと」)なのですが、どうもその言葉が気になって、というよりはすっかり気に入ってしまって、自分の生活の中に少し取り入れることにしました。

で、何を奮発するかって?わずかのおこづかいの中から奮発して、ちょっとよいものを買う・・・というのでは、もちろんありません。本来はそのように使われる言葉だと思うのですが、私の場合はちょっと意味合いが違います。日々の生活ー家事をするにしても、育児をするにしてもーを、ちょっぴり奮発して行う、ということを心がけよう。そんなふうに思っているんですね。その、自分の持っている力、ありあわせの力を、すこーし気前よく使う。なんだかちょっと腰が重いこと、普段何気なくやらないで済ませてしまっていることも、よーしと奮発する。いつもならここで「イラっ」として表情に出していることも、「ちょっぴり忍耐」の力を奮発してみる。出来ないことはいくら奮発したって出来ないでしょうけれど、もしかしたら私は自分の持っている力を過小評価していたり、出し惜しみをしているのかもしれない。そんなことを期待して、奮発を心がけることにしました。

そこでちらりと思い出したのが、鷲田先生の言葉でした。ある時の講演で、先生は「liberal」という言葉についてこのようなことを言及されておられました。「libertyという言葉は『自由』という意味だけれども、その形容詞である『liberal』は本来、『気前がいい』『たくさんの』『寛大な、寛容な』という意味である。自由というのは、誰からも何ものからも強制されたりしないという意味とは違う、『気前のいい』という意味もあるのだ」

そうですよねぇ。自由でいるためには、気前がよくなくちゃいけないということ、何となく頷けます。自分にそれを遂行する力があるのに「したくないなぁ」と力の出し惜しみをしていればいるほど、「したくない仕事」に絡めとられるといいますか、その仕事から自由になることはできません。しかし「よし、この仕事に自分の力を出すぞ」と気前よく引き受けた瞬間から、その仕事は「したくない仕事」という束縛から解放されます。それがたとえ村上春樹氏言うところの「雪かき仕事」であったとしても、「(嫌な仕事を)させられている」と思えば思うほど不自由ですが、「すすんで引き受ける」ことのうちには「(嫌な仕事を)させられている」という不自由は(原理的に)存在しえない、のですよね。

トンビさんもいつかのコメントで「家事=マイナスの仕事という妄信」という趣意のことをおっしゃっておられましたが、私もちょっと気を抜くとその地獄へ足を踏み入れてしまいます。「家事の分担」という言葉をそのまま積極的にすすめていくと、気づけば家事が「家族のために必要不可欠な大切な仕事」から「本来ならしたくない仕事」へ貶められてしまう。そうやって「したくしない仕事の分配」を始めると、「私ばっかり負担して損」「これもして、あれもして」という押し付け合いが始まってしまうのは、ごく当然のことなんです。この、フェミニズムの功績であるところの、女性の権利の裏側にある「自由」地獄から自分を救うのは、多分「気前のよさ」という鷲田先生言うところの別の自由なのではないか。

というわけで、私は努めて心がけて、気前よく奮発しよう。今はそう思っています。もちろん全部が全部、ありとあらゆることを奮発することなんて出来っこありませんが(もしかしたら出来ちゃう方もおられるかもしれませんが)、「よーし、今からこれとこれ」とピンポイントで奮発することなら出来るかしら?と思うのです。それを家族みんなでできたらいいな、そして「出来たね」と誉め合って評価し合えればなおいいな。そんなふうに考えています。いや本来雪かき仕事というのは誰からも評価されずともする、成熟した大人の仕事なのだと思いますが、やっぱりそこまで器の大きくない私は、自分にも他人にも「よしよし」と評価されたいと思っちゃうのです。

・・・というようなことを書いたのが先週。そして先日以前の職場の大先輩にお会いして伺った話を聞いて、なんとなくそれを書いておきたいというふうに思ったので付け加えさせてください。その先輩は3児の母(上が22歳、下が中学2年生)で長年ナースとして仕事を続けてきた人なのですが、「仕事しながら3人も子育てできる秘訣は?」という私の問いに「誰も文句を言う人がいなかったからかな。」と一言。そして「娘が4歳くらいの時、気づいたら風呂に4日くらい入れてなくて、陰部清拭だけでいいや〜ってそれだけしてた。」と笑いながら教えてくれ、「それでもいっか、と思える自分がいたからね。」とおっしゃいました。「気づいたら風呂に4日くらい入れてなかった」という事実が、あまりにもその先輩がしそうなことだったので大受けしてしまったのですが、それはさておき、「それでも子は育つ」ということ、そして「そんなふうに(家事やら子育てやらが)完璧ではなくても仕事を続けてくれたおかげで、どれだけの患者さんが、どれだけの同僚が彼女に出会って救われ、支えられ、慰められたことだろう。」ということを強く思ったのです。何を大切にしたいか、何に奮発したいと思うか、それは人によって違う。今の私は「家事や育児にもうちょっと奮発しよう」と思っていますが、そうではない人生がもっと他者を豊かに、幸福にすることだってあります。それは「やってみないと(続けてみないと)分からない」ことであり、結果論としてしか語れないのですが、どのような生き方を選択しても結局は「それでもいっか、と思える自分」がそれを支えるのだろう。大好きな大先輩の言葉に、「奮発しようがしまいが、『これでよし』と自分で言えたらそれでいいんだよな。」ということを思ったので、追記いたしました。結局何が言いたかったのか分かりにくくなりましたが、きっと「奮発しよう」と私が思ったのも、「これでよし、と自分に言いたかったから」なんだろうと、思うんですよ。