自由の代償

今回はゆきさんのコメントに触発されて考えたことを。(最近誰かに触発されてばかりですが・・・)

ゆきさんのご指摘がありましたように、おそらく一世代前に比べて私たちの子育て環境って改善されているはずなんですよね。地域では子育て支援というものが始められていますし、保育園も(待機児童がいたりと大変ではありますが)増えてきている。そして家事労働や子育てに対して協力的なパートナーに恵まれている女性の数だって、おそらく一昔前よりは圧倒的に増えているのだろうと思います。にも関わらず、「全然楽になんてなってない!」というのが少なくとも私の実感としてありますし、このブログを読んで下さっているお母さんたちのコメントを拝読する限りではそれを共有してくださる方も少なからずいらっしゃるようです。それは何故なのか。少し考えてみると、ちあやさんが「選択の多様化」「選択したことに対する責任の重圧」というキーワードをお話下さいましたが、私もまさしくそのことに思いいたりました。そして私の場合は少し言葉を変えて、このしんどさは「(いわゆる)自由の代償」ではないか、そう考えたのです。

フェミニズムの功績もあり、日本における女性の生き方の選択肢は実に多様になりました。ゆきさん、ちあやさんもおっしゃっておられますが、「専業主婦」「主婦兼パートタイム勤務」「フルタイムでの勤務」と仕事ひとつとっても選択することができるようになった。(もちろん経済的な理由や社会的な理由で「選択する余地がない」場合だって少なからずあると思いますが、ここでは「選択する自由のある女性」に限定してお話をすすめることにします。)また家庭生活に関しても、結婚する、しない、子どもを持つ、持たない・・・いずれも選択しようと思えば、周囲からの圧力は多少あるかもしれませんが、一昔前ほど「こうしなければならぬ」という規範はなくなり、選択する自由を持つことができるようになっていると思います。そうした自由は多くの女性に恩恵をもたらしたことは事実だと思いますが(私もその恩恵を受けている女性の一人です)、一方で常に選択することができる状態において「現状は仮の姿」感とでもいったらいいのでしょうか、「これしか私の生きる道はないんだ」というような覚悟を持つことがなかなか難しい、ということが言えるのではないかと思うのです。例えば私自身に関して言えば、今は子育てに専念させてもらっている状況ですが、いずれはまた仕事を持って社会に貢献したいと思っている。その状況では、私の一生を通じて「子育てが私の生きる道だ!」とは思いにくい・・・つまり、子育て『だけ』で自分の人生を規定させることが出来ませんし、「いずれまた」という選択肢を持っていることで、構造的に「現在取り組んでいること『だけ』に満足しない」状況を作ってしまうんですよね。ですから常に「このこととは違う、ほかのこと」もしたいですし、する自由は持っている。つまり自分のアイデンティティは「そこ」だけにない、拡散している(という言葉が妥当であるかどうかは分かりませんが)のだろうと思うのです。もちろんそれが悪いことだとは一概に言えないと思いますが、時としてその自由は「これが私のミッションなのだ」という覚悟を奪い、大変な状況を乗り越える「資源」としての使命感を使えない状況を生むこともまた、事実であるような気がします。そう、大変で過酷であればあるほど、「これは、私の仕事なのだ」という使命感が必要になるはずなのに、です。それが「自由の代償」なのではないかと、私は考えました。

また「いずれまた」という選択肢を持つことによって、少なくとも私の場合は「現状養ってもらっている」という有り難さを「当然の権利」のように受け止めてしまっている節がどうもあるようなのです。もちろん鷲田先生が「扶養家族、という言葉は失礼ですよね。誰のおかげで外で元気に仕事できると思っているんですか。家族のために働いているのは世帯主だけではありません。」と指摘されておられるように、「経済的な生産性」を尺度にすること自体は正しいことだとは思いません。しかし「誰のおかげで外で元気に仕事できると思っているんですか」を裏返せば、当然「誰のおかげで家の中の仕事をできていると思っているんですか」になるのですが、いずれまた外で働くことを考えている私は「養ってもらっているのは今だけ」だというような考え方をどこかでしている。そうすると「感謝」の気持ちがどこかで薄らぎ、「私は子育てっていう大変なことをしてる。あなたは外で働いている。これで対等。」というような考え方を(自覚はしていませんが)どこかでしてしまっているのでしょうね。ですから自分の家事遂行能力を棚にあげて「家事を全体の流れとして見て。チームワークでやって。」ということを当然の権利として要求してしまった。でもねぇ、振り返って考えてみると、それはあまりに厚かましいというか、愛がなかったなぁ、日々の感謝が足りないなぁと反省しました。いや反省というよりは、「本当はそんなことを言いたくなかった」というのにより近いといったらいいでしょうか。やはりそれぞれの仕事を尊重して、感謝して、「だけどどんなに頑張っても、これが出来ないの。お願いできますか」と言いたかった・・・それが出来なかったことを、自分のことながら非常に残念に思っているんです。だから前回の記事を読んで、おそらく不快に思われた方(特に男性)がたくさんおられるのではないかと思い、この場をかりてお詫びします。そのような意図はなかったとはいえ、申し訳なく思っています。

おそらく一昔前、選択肢のなかった頃の女性は「養ってもらっている負い目」をどこかに持っていたのだろうと思います。自覚されていたか否かは分かりませんが、その負い目が「自分の役割」を規定し、そこに誇りを持つように仕向けていたのではないか。今はそういう「負い目」を極力負いたくないと思うのが普通ですし、負わないようにすることも可能です。しかし「相手を尊重し、感謝する」ために、負い目が必要になることって割とよくある。私の上司である精神科の医師は、「昔の精神科医療では、医師は患者を(治療のため)拘束しなければならなかった。患者の自由を奪っているという負い目があったからこそ、患者に(治療の必要性を)分かってもらおうと最大限努力しようとした。しかし今は入院も退院も患者の『自己責任』となり、医師はその負い目を持つことがなくなった。」ということを書いていますが、私はそれを読んだときに「あぁ分かるなぁ」と思いました。それは夫婦だってき同じ側面があると思うのです。「現状養ってもらっている」という「負い目」があれば、自分の与えられた役割をきちんと果たさなくてはと思うでしょうし、その役割を果たすことで「負い目」を(たとえできなくとも)解消しようとするのではないか。その「負い目」が、今や(私の場合は)「当然の権利」になっているのですから、出てくるのは感謝の言葉よりも不平不満ばかり・・・お断りしておきますが、ここで言及しているのは女性一般のことではなく、私自身のことです。なんというか、「権利の主張ばかりして、文句ばっかり言っている」私自身に辟易しているところがあるのです。だって、どう考えたってそうしているよりは感謝をしているほうが、幸福だと思う・・・負い目を持てず、感謝の気持ちが薄まるというのも、私にとっては自由の代償と言えそうな気がします。

それに・・・基本的には子育てをするまで「いわゆる」自由に生きてきたからでしょうか、急に「自由を奪われる」とやはり負担感を強く持つものなのかもしれません。昔の女性は子育て以前にもたくさんの「ままならなさ」を体験しておられたでしょうし、その体験が子育てを必要以上に大変にさせていないのかしら。もうこのあたりのことは全く分かりませんが、どこかで既に研究されているかもしれませんね。どなたかご存知ありませんか。

それから子育てにアイデンティティを見いだしてしまうこと、負い目を感じること・・・これらに負の結果がつきまとうことがあるということも、一応言及しておきます。例えば「必要以上に教育熱心になる」とか「空の巣症候群」などがあるでしょうか。ですからここで私が書いてきたことは、「それらがいいことだ!」という主張ではないということを、最後に言い訳させてください。