誰か、何かの役にたちたいという思い

前々回のトンビさん「お手伝わせる」大作戦に触発されて考えたことなど。

どんなに小さくても、あるいは「いわゆる」弱い立場にいる人でも、「誰か、何かの役にたちたい」と願うものなんだろうと思います。思い返せば病棟にいた頃も、よく患者さんたちに「ふきんたたみ」や「スタンプ押し」をお手伝いしてもらっていましたが、そんなふうにお手伝いをしてくださる方は(自分で気持ちを伝えられる力のある人は)こちらが思う以上に喜んでその作業を手伝ってくださいました。またベテラン患者さん!?などは、新人ナースに「こうしたらいいよ」「ああしたらいいよ」と逆に指導!?をして下さったりして、万年新人のようだった私はずいぶんそうした患者さんたちに助けられてきたように思います。そんなふうに、「お世話をする人」「お世話をされる人」という立場はそれぞれにあるのですが、「その間を自由に行き来できる」ということは思いのほか重要なのではないか、と思うのです。そしてそのことを常に自覚し、その交通手段についてたくさん知っておくということは、子育てをする上でも大切なのだろうなぁ、と思っています。

そんなことをツラツラと考えていると、鷲田先生の言葉を思い出しました。「関係というのは、常にインターディペンデンスである。」というお話の中で、「自立とは、自分で何でも出来ることではない。依存をしないということでもない。いざ、という時に自分を助けてくれる人のネットワークができている人のことを、自立しているという。そして『この人からは助けてもらえないだろう』というような人から助けられることもある。例えば『赤ちゃん』から、お母さんが助けられるということだって、起こりえるのだ」ということをおっしゃっていたのです。いやまさにその通り、深々と頷いてしまいました。そうなんですよね。目の前にいる子ども・・・「してあげるばっかり」と思うことも、「してもらうばっかり」でいることも、お互いにしんどい。けれども「この人にどれだけ助けられているか」と思えば「ありがたい」と素直に思いますし、子どもの力を信じて任せる、あるいは協力してもらうということは、子どもの「役割」と「居場所」を作ることになる。・・・結局「お世話をする人」に自分を役割固定せずに、どれだけフレキシブルに、自由に、そして目の前の子どもに対して開いていられるか、ということが鍵になるのだと思います。

さて「自立とは、いざという時に自分を助けてくれる人のネットワークができている」ことだと鷲田先生はおっしゃいました。地域の精神医療に携わっていても、それは「まさしくその通りだ」と思いますし、そうしたネットワーク作りが(スタッフの)仕事であると考えています。身の回りのことが自分でできなくても、出来る人、手伝ってくれる人をみつけることができたらいい。困ったときに「助けて」と言える相手がいればそれでいい。昨今は「自立支援法」という法律が制定されて、とにかく「就労」が自立なのだという風潮にあります。つまり、「自分のことは自分でして、お金を稼いでこそ自立」という考え方が一般的になりつつあるということです。でも、赤ちゃんに誰が「自立」を説くだろう?子育てをして、「圧倒的に弱い人を家族の中で抱え込んで」みると、頭で難しいことを考えなくても「そんなの、へん!」と自然に思うようになる気がします。赤ちゃんや子どもと地域の障害者の方々を同列に述べるのは一方で非難されてしまうかもしれませんが、それでも「自立」というものを考える時には「子どもを持つ親の視点」が導き出してくれることも多いような気がします。

しかしながら、就労についていない地域の精神障害者の方々のじつに6割もの人が、「就労」を希望しているという統計的事実も重く受け止めなければなりません。人々の「誰か、何かの役にたちたい」という切実な思い、そしてそれが今の社会では「就労」でしか実現しないであるかのような風潮・・・せめてこれから育っていく子どもたちには、「誰か、何かの役にたつ」ことがイコール「仕事をして、お金を稼ぐ」という単純な図式で成立するものではないのだということを、家族の中の「労働」を通じて学んでいって欲しいと切に願っています。