2歳児は楽しい

supply72009-03-11

ひとそれぞれなんだなあ。というのは、今日はこの書き出しを「2歳ってかなり楽しいぜ」にしようかと思っていたので。

先週末、花見に行った。アーモンドの花は桜によく似ていて、異郷の日本人心をぶるぶる振るわせる。日本には(たしか)滅多にないような抜けた青空を背に咲き誇る春のアーモンドの姿には、毎年、涙さしぐむほど日本が恋しくなる。なんでだろうね? まあそれはともかく、子どもが生まれる何年も前から何度かツレと来ていた西公園の入り口から少し奥に入ったところにある枝ぶりの立派な「いつもの」アーモンドの樹の下で、スペインで何度目かの花見をした。

「場所の記憶」ということを保坂和志が一時期テーマにしていたが、「いつもの場所」に陣取った瞬間、まるでこの大樹や何年も変わらぬ周囲の光景や土の温かさに誘われるように、数年のことが折り畳んだようになってどんどん思い出されてきた。ニーニャが生後4ヶ月のとき、A型ベビーカーの上のベッド部分ごとよいしょと外して芝生の上に置いたこと。昨年は私が最悪の体調でこの恒例の花見もできず、近所の公園で移植されたばかりのひょろっとした小さなアーモンドを見て終わったこと。断乳直後のニーニャが荒れてたよなあ。そして今年は「ソーセージ、こっこっ(おかわり)。ハイあいやっと。ままご(たまご)、たぶるー(食べる)。アイどーも」と大人と同じ弁当を食べ、「ちゃっちゃ(茶)、おいちー」とこちらの頬っぺたをペシペシしてくれる。会話してるよ。あー楽しい。

私が会話に歓びを感じるタイプだからかもしれないが、この頃、すごく楽しい。「魔の2歳」といっぱい言われて覚悟をしていたが、1歳半あたりの方がずっと「大変」だった気がする。なに言っても「通じない」感の徒労、お互いの深い疲労。でも最近はちょっと違う。たとえば昨日、私の都合で保育園帰りに公園に寄らず風呂も入らなかったせいかパワーが余っていてベッドに入ってもあれこれ遊んで落ち着かない娘に、ほとんど独り言のレベルで「わかった。なんかうまく寝つけないんならさ、あっち(サロン)戻ってしばらく好きにしてていいや。うん、そうしよっか」と言うと、思いがけず「だいじょっぶ」と答えて、それから自分でくるんと壁側を向いて指をしゃぶり始めて、すぐに寝た。おいおい、わかってるよ。ちょっと感動した。

もちろん衝突することも(多々)あるんだけど、それでも相手が人間なので、迷いながらも出口があるかんじがある、というか。たとえば「Este, No!!!(=このスボンは嫌!)」と泣いていても、「じゃあこっちのズボン? スカート? オムツをパンツタイプにする? っていうかドーナツ食べる? あっミッキーさん来たよ。見えた? あーあっち行っちゃった。ざんねーん、また来るかな?」などと言っているうちに、なんとかなることも少なくない、というか。「まあ人間同士、ハラを割って話そうぜ。一緒に住んでるんだしさ、どっか落としどころを見つけようよ、な?」というのが通じる(気がする)、というか。

と思っていたら、昨日のコメントの波留さんは言葉が通じるようになって大変になったと感じているとのことで、やーほんとこういうのはひとそれぞれだなあと、あらためて思った次第なのでした。(あと、日曜に初迷子になったディエゴを見てると、うちが運動量の少ない女子だからこんな呑気なこと言えるのかもしれないとも思う)