シイタケじいさんと脂ぎったネズミの物語

シイタケを運ぶ毎日が悟りに通じる。という話を内田樹の著作で読んだはずなのだけど…探しても見つからない。うろ覚えで書きます。ぜんぜん違うかも。日本の偉いお坊さんが中国の偉いお坊さんのところまで修行に出かけた。仙人だったかな。波濤万里、念願叶ってようやく会えたそのひとは、かつて船から降りるときに見かけた、シイタケを船から降ろして運んでいた老人だった。「そんな偉いのに、なぜそんなことをしていたのですか?」「それはね」「それは!?」「わしゃ、シイタケが好きなんじゃ」ちがう。たしか、「なぜ、シイタケを運ぶことが悟りにつながらないと思うのかね?」みたいなことだった。少なくとも私はそう覚えている。そういや岡野玲子『ファンシィダンス』で描かれるお寺の修行も、「掃除」や「炊事」ってけっこうあったよな。

ええもちろん子育ての日々をつうじても、悟れますとも。というか、赤子という圧倒的弱者を前にしては、「お金あげるから、ごはん、外で適当にすませといてー」とか「トイレくらい自分でして、自分で汚したら自分で掃除もしてきなよ」とか、こちらの権利みたいなものを主張することは許されない。言ってもいいけど、それでなにも変わりゃしない。現実として、乳やり、オムツ換え、ごはんの準備、寝かしつけなんかも、ともかくしなければならない。みんなやっている。でも、「どうやっている」かは、ひとそれぞれだろう。「ああ、これは神が私に与えし修行のチャンス」とポジティブに捉えてひとつひとつ丁寧に考え抜いてやり抜けば、悟りなんかが訪れるのかもしれない。「ちっ、なんでオレばっかり」と掃除中の学校のトイレの個室の上に座り込みタバコをふかすようなやりかただと、やるべきことと不満とが増えつづけるだろう。要は、「引き受けるか/否か」ということなのかもしれない。

なんて偉そうに書いている私は、「引き受けるべき、っていうか、そこで爽やかに引き受けられる人間になりたいけど、でもなかなかねー」というあたり。内田樹経由の「シイタケじいさん」の話は、「引き受ける」の側に寄せてくれる、ひとつの物語だ。『ファンシィダンス』のヨーヘーくんも。そこはあれだよね、ひとそれぞれなんだろう。物語というのはつまり、現実から飛翔して私たちの前に立ち私たちの行きたいところへ導くための装置なのだから(ほんと?)


3回目の桃の節句おめでとうのニーニャ(2歳3ヶ月)が最近気に入っている「物語」のひとつは、落っこちること。"Se ha caido."というスペイン語は、物が落ちたとき、倒れたとき、ひとが転んだときなどに多用する表現なのだが、恋人ディエゴと公園で遊んでいたときにふとこれが言えるようになったのがよほど嬉しいらしく、お迎えにいくたびに自らタタミ(床に敷くマットのこと。スペイン語で「tatami」なんだって)にダイブし、"Se ha caido!"と叫んでいる。おお、これぞ言語こそが現実世界を規定する良い例だ! しかしこれじゃ江頭2:50分だよ、娘。

寝る前の「物語」は、お下がりでもらった「ぐりとぐら」。まだサロンで遊んでいたがる娘に「ベッド行って『ぐり・ぐら』読む?」と訊くと、「よむ」と頷き、テレビにバイバイをし、ご機嫌で寝室に向かいながら連呼する。「ぐら・ぎら! ぐら・ぎら!」 ああ、「ぐら」をベースに、もう一方のひとつの音が「イ音」に変化するところまではいってるのにね…。でも、そんな脂ぎったネズミの話はイヤだわよ、かーさんは。