「解決」はできなくとも

前回、子育てをする上で「自分の中の眠れる獅子」について書き、その後も「自分の感情をコントロールすること」の難しさについてずうっと考えてきました。自分の中の自然なリズムには抗うことができないのか、それとも上手に折り合いをつける方法があるのか、ないのか・・・どうしたらいいのか分からずにいたのですが、自分では予想もしなかったところで、「解決」は出来なくとも「自分と子どもを守る術」について知ることになりました。それは、とある幼稚園との出会い。私はその幼稚園に出会うことで、ずいぶんと自分の中で大きなものごとが変化し、そして楽になることができました。これらについては、自身のブログ京都生活手帳(『親』を身にまとうーケーススタディへのお誘い)を参照して頂ければと思いますが、それは意外なことにも「もっと頑張らなくていいよ、楽していいよ」というものではなく、「もうちょっと頑張りなさい」というメッセージを言外に受け取ったことから始まりました。

そしてこれと時期を違わずして、またしても「もうちょっと頑張りなさい」という(これまた言外の)メッセージを受け取ってしまいました。それは、先日同志社大学で行われた鷲田清一先生の講演でのこと。(えへ、また会いに行っちゃったんです)鷲田先生はまず以下のような鶴見俊介さんの言葉を引用されました。

「どんな人でも、家のなかでは有名人なんです。赤ん坊として生まれて、名前をつけられて、有名な人なんですよ。たいへんに有名です。家のなかで無名な人っていないです。それは、たいへんな満足感を与えるんです。私は、人間がそれ以上の有名というものを求めるのは間違いではないかと思いますね。そのときの『有名』が自分にとって大切なもので、この財産は大切にしようと思うことが大事なんじゃないですか。
自分はかつて家のなかで有名な『者』であった。その記憶を大切にする。そして、やがて自分は『物』となって、家族の者にとっても見知らぬ存在になっていくという覚悟をして、そして物としての連帯に向かってゆっくりと歩いていくという覚悟をもって、家を一つの過渡期として通り抜ける。それが重要なんじゃないでしょうか。」(弱さのちから p218)


この引用をひいて、鷲田先生はこのような解釈をお話してくださいました。「人は尊重され、大切にされるものとして生まれてくる。そして他者にとことん大事にされるという経験を財産として、社会に出ていく。『育つ』ということは、『有名ではなくなる』ということでもある。しかし他者にとことん大事にされたという記憶を財産として、他者と『その他の関係』を結んでいくことができるのである。」鷲田先生は人と人とが支えあって(連帯して)いくために、「かつて他者にとことん大事にされたという経験を財産として持つ」ことの大切さについてお話されたのでした。

そう、幼児期の子どもにとって何よりも必要なことは、この「他者にとことん大事にされる、愛される」という経験なんですよね。それを贈与するために、子どもの目の前にいる「わたし」がすべきことはなんなのか。どう振る舞うべきなのか。そうやって「自分を律する」ことを知ると、「簡単にイライラしたり、怒りを爆発させていたのでは全然ダメなんだ・・・(つまり、『もうちょっと頑張りなさい』というメッセージを受け取る)」ということに考えがいたります。ではどうやって自分を律していくのか。それはくどいようですが、自身のブログに書いたので詳細は読んで頂きたいのですが、「他者にとことん大事にされるという経験をつんでもらう」というミッションを持った『親』という役割を身にまとうことで(すこし)可能になりました。そしてその役割をすぽっと身にまとうことで、「剥き出しのままの」傷つきやすく、状況に振り回されやすい「わたし」を守ることもできた。・・・こ初々さんは荒井良二さん作の「そのつもり」という絵本が大好きですが、ハハにとっても「そのつもり」って大事なんだよなぁと思います。

子どもひとりひとりが何かを出来るようになったり、社会化していくために私たちがこどもにしてやれることなんて、きっとほんのわずかなんでしょうね。それよりも、生まれてからほんの数年の幼児期に「とことん大事にしてあげる」、愛情をふりそそぐ。そのことをこそ、まわりの大人は心を砕いてしていかなければならないのだと思います。その少しの期間、「その役になりきっちゃえ!」今の私はそんなふうに思って、肩の荷を軽くしたのでした。