マラドーナ

ではなく「マンドーナ」と呼ばれています、最近うちとこの娘。「仕切りや」というか「えばりんぼ」という意味。クラスでいちばん年少だし実際におちびでもあるくせに、態度だけはでかくなる一方らしい。とはいえ、先生たちには至って従順。「ちびっこマラドーナ」の被害をこうむるのは、仲の良いクラスメートたち(というのは矛盾で、そのうち被害をこうむってくれる「仲の良い」子はいなくなるんじゃないか?)。もちろん暴君ニーニャの目下最大の被害者は、恋人ディエゴ君。

「数ヶ月前までは、ディエゴがニーニャに威張ってたのに、いまはすっかり逆転しちゃって」とは、先週金曜のカーニバルでの変装姿が「PLAYBOYのウサギ」にしか見えないとパパたちに絶賛された保育士のベレン。それを聞いたディエゴママのエバが「あら、それはいいわねー。ニーニャ、もっとこの暴れん坊をとっちめちゃいなさい!」なんて言うもんだから、可哀想なのはディエゴ。この日もふたり一緒の帰り道、ニーニャと手をつなごうとして「ノオオオ!」と、ものすごい勢いで手を振り払われた挙句、立てた人差し指を振りながら「ノ、ディエゴ、ノッ!」と完膚なく拒否さると、パパのペドロの肩の上でぐすんぐすんしながら「だって、ニーニャ、ぼく、きらい」としょげかえっていた。

こうやって、(かなり強情ではあるが)内気で「おお、外国生まれでもやはり日本人はNOと言えないのか!」と思っていたニーニャも、いま「威張る」というのを経験して、なんというか、感情の幅というか深さを育んでいるんだろう。うん、そうなんだろうよ。ええ、だからきっとそのうち、過ぎるよね。そういえば、周囲の、子育て歴が上の親御さんたちにする質問はいつもこれだな。「いますごく○○(たとえば病気が続く、親をビンタする、お菓子大好き、臆病でブランコとかしない)なんですが、これっていつか過ぎ去ることですよね?」 知りたいのは、いまの時点では想像もできない地平がこの先には広々とひらけているということ、それを信じてもいいってこと。


こうして何日か続けてディエゴを泣かせての帰り道、ニーニャが家に入る数歩前で立ち止まった。どうでもいいこと(ティッシュをよこせ、とか)で、ぶわぶわと泣き始めた。「んじゃママ行くねー」と視界から消えて(バニーガール・ベレンのアドバイス)、扉の陰からちらちら見ているのだが、ニーニャは一向に歩き出す気配もなく、全身ペンギンになったままでごうごう泣いている。やがて通りすがりのおじいちゃんやおばちゃんたちにかまわれだして、するともとが人見知りの子なので、なおさら泣きつのる。あー、あおっぱなが豪勢に出てるなー。わらわらとひとが集まりだしてなんだか近所の小ニュースになりかけたところでさすがに出ていって、「どーしたの?」と抱きしめたとき(同時に彼女にドン! と突き飛ばされたが)、たぶんわかった。

こんなニーニャにも、大好きなディエゴを泣かせた有責感のようものがたぶんあって、でもそれをうまく処理できないのだろう。相手の逃げ場をなくして追い詰めることを30余年の得意技としてきた私は、そういえばその直前、「あーあ、ディエゴ泣かせちゃったー。かわいそー」と何度も言っていた。それにおっかぶせてさらに「どうする? もうディエゴと一緒に帰るの、やめる?」と訊いたんだった、まったくその気もないのに(おそらくニーニャにとってディエゴがだいじなアミーゴである以上に、私にとってエバとペドロとのひとときは、いま最高に大切)。そうしたらニーニャは「ノ」と、これは弱々しく首を振ったっけ。「じゃ、一緒? 明日も一緒に帰る?」と訊いたら(しつこい)、小さな声で「いっしょ」と答えた。それから泣いた、んだなー。そっかそっか。

ま、頑張れ。
お前はお前自身が深めるしかないからの。

というわけで、今日の一枚はその、カーニバルの日の太陽組さんたち(一部)です。

左端のディエゴと、右端の心優しき最年長パブロは、現在ニーニャの被害者友の会。右から3番目にいる小さなニーニャは、まさかパブロと手をつないでいる隣のダニエラになにか文句つけてるんでは……。