お金をパクパク食べちゃう人

先日のこと。こ初々さんが自分の好きな絵本をテーブルに並べて「とうちゃん、どれ欲しい?」と訊いてきました。いつもなら、「これください」と一冊指さして、それを受取って遊びは成立するのですが、その時は、「これください、いくらですか」と尋ねてみました。こ初々さんはちょっと考えてから「ハッピャクエン」と。で、「はい、800円です」とお金を渡すまねをしてやると、そのエアマネーを受け取った手をまたしばらく眺めてから、手を口に持っていって「パクパク」と言いながら食べてしまったのです。「お金を食べる」という発想がこちらになかったので、妻も私も大爆笑。「カネゴン*1かよ」(サマーズ風に)。

でも、これってよく考えると面白いです。こ初々さんにとって“価値”がどのように理解されているかを示しているような気がして。彼女にとっての“価値”とは“食べられる”ってことなんでしょうね。こ初々さんがお金をどのように理解しているかは分かりませんが、モノと交換できる大事なものだという程度には理解はされているようです。バーコードリーダーのようなものをモノに当てて「ピッ、ピッ ニヒャクエンです」なんて言ってお買い物ごっこしてますけど、実際のお金を食べたりすることはありません。お金を食べるマネは、お金の価値を表す彼女なりのメタファーであるような気がするのです。「価値とは食べられることである」。さしずめ、金本位制ならぬ食べ物本位制ですね。

食べ物本位制経済。お金の価値を“食べられる”として認識(あるいは表象、あるいは表現)しているこ初々さん。なんだかとっても“まっとう”であるように思えてきます。なぜなら、身体に根差した欲望であるかぎり、その欲望は足るを知ることができるから。“価値=食べられる”であるかぎり、「もうおなかいっぱい」という欲望しない状態があるからです。逆に、お金が“あらゆるものに交換可能な価値”として抽象化されたとき、つまり身体の欲求から離れた記号となったとき、「おなかいっぱい。もうたべられませーん」という制約がなくなり、欲望は際限なく拡大し続ける。

旧約聖書出エジプト記によると、モーセイスラエルの民を率いてシナイの荒野を旅している際、神はその民のために天からマナを毎朝降らせられた。人々はこれを食して旅を続けた。民はその食べる分だけマナを集めることが許された。マナは翌日には虫がついてくさくなった。身体に根差して、かつ蓄積が不可能な価値は、貧富の差を決して生みださない。と、分かっていても、記号好きの私としては、貯蓄残高が増えると嬉しいし、本来無価値なものに価値を見出してしまう想像力こそ、人間的であったりもします。ですから、こ初々さんがお金を食べずにしまい込んじゃう日もそう遠くないのでしょう。ちょっと残念なような、でもそれが人としての成長でもあったりして。そうそう、それと、こ初々さんにとってすでに、食欲=身体的欲求っていう単純な図式じゃないようです。これについて書くとまた長くなりそうなので次にします。

*1:ウルトラQに登場したお金を食べる怪獣。身長2mくらいで可愛い。でも、お金を食べ続けないと死んでしまうというシニカルな面も