下の世話は大変じゃないけれど・・・本当の大変さって

最近はあまりないのですけれども、時折職業を尋ねられて「看護師です」と答えると「大変ですね。」と言われることがあります。そのような時相手の方が、「何をもって大変と言っているのか」が不明なことも多く、「えぇまあ、そうですね。」とお茶を濁して曖昧に返答することしかできないということが多々ありました。世間一般に3Kと言われる職場、不規則な勤務、高度専門化する医療現場・・・どういうものをイメージして「たいへん」とおっしゃって下さっているのか分かりませんが、しかしそのどれもが「たぶん、私が感じている『たいへんさ』とは違うだろうなぁ」と思ってしまう自分がいます。本当の大変さは、「そういうこと」じゃないんだよ。伝える努力もせずに、そんなふうに気持ちを閉じてしまうことも多かったように思います。

例えば・・・あまりそうあからさまに言われることもないのですが、「下の世話が大変」と言われると、実際のところ「それを大変だと思ったことはない」のです。いえ、そう言うと誤解されかねないのですが、汚いものは汚いですし、それらは(感染という面からも)汚いものとして処理されます。素手にうんちがつけば「ぎゃー」と叫んでしまいますし(経験あり)、おしっこの水たまりに足を踏み入れてしまえば(経験あり)その日一日「おしっこ踏んだし」なんてがっかりしてしまう。しかし排泄も人間の営みにおいて欠かせないものであり、その力を(一時的にせよ、永久的にであれ)失ってしまった人に対して適切な援助をすることが仕事であるという認識を共有している看護師にとって、それらがとりわけ「大変である」と意識されることはまずないと言っていいと思います。そのように職業的に訓練されていますし、そうした「枠」がその行為を必要以上に大変にさせていないのでしょう。

では実際に何が「大変」なのか?それはおそらく、職業的に訓練された「枠」が揺さぶられるような体験なのではないかと思います。「相手は弱い立場の患者さんなのに」どうしてもわき上がってくる怒りやイライラなどの「いわゆる」ネガティブな感情、「家族や友人でもないのに」とりわけ大好きだった人を見送ったあとの喪失感、「おそらくその時近くにいてしまったがために」ぶつけられる生々しい感情・・・生身の人間とがっつり向き合うことで発生する感情の触れ幅が、ーそれは思いのほか簡単に職業的な「枠」を飛び越えてしまいー時として看護師を疲労困憊させるのではないかと思います。

そしてそれはおそらく子育てでも同じこと。小さいながらも生身の人間と24時間一緒にいれば、そりゃあ「母親」という枠を飛び越えて「きゃんきゃん」怒りたくなったり、「もう勝手にしなさい」と突き放したくなったり、「何で寝ないの!」とがっかりしたり憤ったり。そしてその後から、「相手は小さな子どもなのに。そして私は母親なのに。」と後悔してしまうようなところも一緒。「こども」を「患者さん」に、「母親」を「看護師」に変えれば、そのままあてはまってしまいます。ですから子育ての何が大変かって、それは「常にクールでいられないこと」。裏を返せば、「常に(プラスでもマイナスでも)心が平穏でいられないこと」なのではないかしらと思うのです。いや〜これまでこんなに簡単に怒ったりイライラしたりするような人間ぢゃなかったはずなのに・・・とよく気落ちしますが、きっとそれはただ単に「今までそれほどがっつりした状況にいなかっただけ」なのでしょうね。

ところでカナさんも書いておられましたが、「おとな相手には絶対にしないこと」や「おとな相手には抱かないような感情」を、子どもに向けてはしてしまったり持ってしまうんですよね。あの「ぐわ〜」っと腹の底から突き上げてくるような怒りやイライラ、エネルギーの塊そのものみたいな強い衝動は、一体なんなのでしょうか。私はいまだかつて大人相手にそのような怒りを感じたことがなかったので、正直なところどうしていいのか分からずにいます。今だから告白しますが、その怒りをどうしても押さえられずに、持っていたおにぎりを壁に思い切り投げつけたという経験さえあるのです。今から振り返ってみると、あの時私が何に対してそれほど怒っていたのか全く思い出せないのですが、その時に感じていた「どうしようもない怒り」はしっかりと身体が記憶していて、「それがどういうものだったのか」ということをはっきりと思い出すことができます。そして「あぁあのエネルギーのぶつけ先が、こどもじゃなくて本当によかった」とつくづく思い、「そうでなかったことだって、ありえたのだ」と身のすくむ思いがするのです。

そういう、自分の中にいる「眠れる獅子」を呼び起こされるような体験というのは、やはりしんどいもの。普段いかにクールに「善人」を装えていても、ある時ある状況で「カチリ」と何かが組み合わされば、自分が思っていた以上に簡単に、「それ」は目を覚ますのです。そうした体験をしてしまうと、「自分は、状況さえ整えば人を殺すような人間だと思う」とは「クールに」言えなくなってしまいました。そう、それがあまりにも自分に身近すぎて、生々しいのです。そしてそのかわりに、「どうか獅子よ目を覚まさずにいておくれ」と祈るような気持ちを持つようになりました。

と、ネガティブなことばかり書いてきましたが、「自分の中に獅子がいる」ということを「体感」できたというのは貴重なことなのかもしれません。「クールな」おとな社会に生きていると、そういう生々しい体験というのはなかなかできないもの。そしてそういう体感をすると、「自分の中に獅子がいる」ということを前提に「いかに獅子を覚まさないようにするか」という戦略をたてることが可能になるのです。ですから、しんどい体験をそのままにはせずに、どこかで客観的に振り返って「こういう状況は避けよう」と建設的な方向へ持っていきたいなぁと思っています。そこで最近始めたのが、「自分の機嫌データ収集」。出産後(厳密に言えば断乳後)、どうも月経周期に自分の機嫌(や体調)が左右される傾向が強くなっているように感じ、その関連性をみるために毎日自分の機嫌を「主観的データ」として記載しています。本当はここでオットにも「客観的データ」を収集するように依頼したいところですが、「えっ!私は今日ご機嫌さんでいたのに、不機嫌そうだった!?」なんてことになると家庭内平和に影を落としそうなので今のところ叶わずなのですが、まぁそのうちに・・・しかし「月経周期で機嫌が変わるってことが分かって何になるか?」と問われてしまうかと思いますが、もし「このあたりには機嫌があまりよろしくない」ということが分かれば、例えば「予定をきちきちに入れないようにしよう」とか「ここは休憩期間にしよう」とか、ある程度「予防策」を取り入れることができます。まぁたったそれだけのことなのですが、今のところ私が「自分の中の獅子」と折り合いをつける方法として思いついたことがこれだけなのです。また何か妙案がありましたら、みなさまから是非助言を頂きたいものだと思っています。