こぶしの痛さは関係ない(はず)

先週から来週までは毎日、ギックリ頸と腰のリハビリに通っている。そこへ行く地下鉄の5駅と、リハビリセンターでマイクロウェーブを当てられながら、内田樹(師匠)の最新刊のひとつ『街場の教育論』(ミシマ社)を読んだ。例によってそこには、内田樹によってしかつなぎあわされず生み出されないであろう驚くべき知見が山盛りで書いてある。そのうちひとつが、たしか内田樹が何度も繰り返していることのひとつ、

成熟は葛藤を通じて果たされる (p114)

ということだった。


ジャジャーンと赤ちゃんが生まれた瞬間、こちらも「親」なるものになった。それと同時に、自動的に実質を伴った「親」になるのだとかつての私は思っていた。ちょうど麻雀のように。なんせ麻雀の場合、風が変わって親になった時点で自動的にアガリ点と打ち込み点が子の1.5倍となる。そんな麻雀の親なら、何万回も経験してきた。でも人間としての「親」は、そうかんたんに変わるものではなかった。えっ、当たり前!?
もしそれでも、こんなしがないオイラが「親」というものになってからなにか「親」らしい「実質」を伴うようになったとしたなら、それは子どもとの日々の葛藤においてではないかと思う。


一昨日、ニーニャが珍しく着替えを嫌がった。彼女は生来がアトピー肌なうえにこのところ風邪気味で全身にポツポツができていてとても痒いらしく、着替えで裸になったすきに爪を立てて思いっきり掻こうとする。肌の状態があまりにひどいのでしぶしぶ使ったステロイド系クリームを、連続使用期間が過ぎたのでやめたばかりで、でも小児科の先生に「こういう状態ならあと2,3日使いなさい」といわれたのでこわごわ再開したところだった。ホルモンを塗るんだよー。それなのにそこをかきむしっては、悪くなるばかりじゃないか!

掻くのをやめさせようとした私の「強硬さ」に、ニーニャはなんかカチンときたらしい。そりゃもう「殺されるー!」くらいの勢いで泣き、喚き、逃亡を図る。そのまま放っておいたらますますかきむしるし寒いから風邪ひくしだいたい体調悪いんだし、私もなんだか疲れていたし月のものもありましたしねええ、「ああもう!」と鬼になり、ニーニャのかぼそい腕の付け根を私の膝で組み敷しいて強引にオムツをあてて着替えさせた。ニーニャは泣きすぎて吐いた。

鬼の形相で着替えを済ませてみればなんてこたぁなくて、目の前には犯された処女のようにぐったりと横たわり涙も乾き果てた風情の娘がいて、私は自己嫌悪に耐えかねてトイレにいき、でもそれじゃ娘が自分自身を責めやしないかと心配して「ママちょっとチーしてくるね」と気軽なふうを装って声をかけ、トイレに入った。でも読みかけの本も頭に入らないし、どころか、さっき一瞬「ここでこの子を叩いておとなしくなるなら叩いてみるのも、」と思ってしまったことに、深く深く反省というか傷ついてしまって、でもここで「傷ついた自分」を認めてしまうとナガブチの「思わず殴ったあいつの頬/握りしめたこぶしは やり場のない俺の胸にいつしか突き刺さっていた」(うろ覚え)という、ドメスティック・バイオレンス加害者によくある自己肯定(「お前を殴った俺のこぶしの方が痛いんだ」等)になるから絶対ダメ! と思ったりして、泥沼のように疲れて、出てくると、娘は同じ姿勢のままだった。

「ママ、ここにいていい?」と訊くと無言で、「じゃママ、あっちいってよっか?」と寝室を指差すとウンと頷き「ママ、あっち」と言われたので、「落ち着いたらおいで。声かけてね。お腹空いたら言って」などと言いながら隣の部屋に移った。ニーニャは放り出されたような格好で寝転んだまま私が流しておいたNHK教育番組のビデオを見ていて、そのあいだ私は本を読みながらずっと、「どんなに私に正当らしい理由があったにせよ、相手が大人だったらああいうやり方は絶対にしないわけで、ということはニーニャとの圧倒的な力の差に基づく人間として最低の行動だったわけで、いやでも相手が大人だったらふつうオムツ換えたげたりしないでいいし話したら多少わかるだろうし、相手が赤ちゃんだから私は保護する者であるわけだけどやっぱり……」と考えて、45分くらい経ってやっと少し動く気配がしたのでそうっと近づいて「ごはん、食べる?」と声かけたら「だっこ」と両手を伸ばしてきた。こんな親でもそんなに思ってくれるか、っていうか、あんたには選択肢がないもんなあ、と思うと不憫で不憫で有難くて情けなくて愛しくてうわーんと思った、

そういう日々が、おそらく私の人間的な未熟さゆえに、訪れる。そういう葛藤が、私を少しだけ「親」的なものにしてくれるのかもしれない、そう思いたい。麻雀だって親は1.5倍の支払いをするリスクを負ってこそ1.5倍のアガリ点を……って、結局それかい!