コトバの力と父ちゃんの限界

あけましておめでとうございます。オット初々です。前回(2週前)に引き続き、またこ初々さんの言語習得の話です。まさに言語爆発とでも言うべき速度で、言葉を習得しつつあるこ初々さんですが、数日前から接尾語「─みたい」が現れるようになってきました。といっても2例採取しただけなんですけどね。

一つは、新井良二の絵本「たいようオルガン」を読んでもらっていた時のこと。絵本の片隅に描かれていた小さな茶色い山を指さして「やま」と言った後、「ウンチみたい」。二つ目は、今朝家族三人でいるところでこ初々さんが私に向かって「とうちゃん」と。私「ハイ、とうちゃんです」、こ初々「ペンギンみたい」と。これって、比喩表現と言っていいですよねぇ。うーん1歳11か月で比喩表現ができるようになるとは思わなかった。「AはBのようだ」という直喩表現は、佐藤信夫によれば認識の地平を開くものだそうだけど*1、「みたい」の使用の裏にはこ初々さんなりの認識上の発見があるのだなぁ。つまり「茶色い小さな山はウンチに似ている!」とか、「黒いセーターを着た父ちゃんはペンギンに似ている!」という発見が。異なる二つの対象に対して共通性を認める、という極めて高次の認知能力を発揮しているわけだ。

でもって、さらに興味深いことに、まさにこ初々さん独自の発見であったその共通性が、その場を共有する他者(つまり、私)にとっても了解可能である、という点だ。オット初々(父)も初々さん(母)も「茶色い小さな山」を指して「これウンコ」と表現したことはない。また、父ちゃんであるオット初々が自分を指して「とうちゃんはペンギンです」と表現したこともない。「うんこみたい」も「ペンギンみたい」も彼女が独自に発見した認識に基づいた表現であったはずなのに、確かに茶色い塊はウンコみたいだし、黒いセーターで突っ立っている私はペンギンみたいかもしれない。全く別個の世界を持っているであろう私と子どもの二人が「コトバ」の力によって、その二人がお互いに了解可能な世界を共有している可能性を見せてくれる。比喩に基づくコトバの力だ。一方が「茶色い山」を「ウンコ」といい、他方がそれを理解できるのは「茶色い山」と「ウンコ」の間に共通の何かを認められる力、つまり「共通感覚」*2が、こ初々さんと私との双方で働いているから。

それにしても、「茶色い小山」を「ウンコ」とはなんともベタな表現ではないかと思うのだが、これだって、オトナの勝手な言い分で、こ初々さんはもしかしたら、こちらに理解できない表現で、誰も思いもつかなかったような、新たな認識の地平を私に示しているのかもしれないのだ。それを新しい認識として理解できないのは私がそれと認められないからなのかもしれないのだ。「とうちゃんに理解できるのは、せいぜいウンコネタ」ってことなのか。

*1:佐藤信夫氏の名著(だと思う)「レトリック感覚」より

*2:共通感覚については、木村敏著「異常の構造」と中村雄二郎著「共通感覚」が面白かった。もう、20年前くらいに読んだ本だけど。ああ、大学で学んだことはこんなふうにして私の日常にやってきたのかぁ