これもパッチングケア

以前カナさんが「待つということ」(鷲田清一著)を紹介されておられましたが、鷲田先生のお弟子さん?で看護師でもある西田勝氏の「ためらいの看護」をつい最近読みました。その著書の中で氏は「パッシングケア」に続く「パッチングケア」の大切さについて言及されています。

「patchは、『・・・につぎを当てる、つぎはぎをして修繕する』という意味だ。(中略)人はさまざまな関係の網目の中で生きている。何か助けが必要になったときにも、すべてを完全に与えてくれる全能者など必要はないのだ。すべてを与えてくれる者は、すべてを奪う者でもある。普通のケアは、たくさんの人からケアのかけらをパッチングされることで成り立つ。」

その通りだ、としみじみ思います。どうしたって援助側の立場にい続けると、「わたしが」何とかしてやりたい(何とかできるはずだ)と知らず知らずのうちに思い込んでしまうという「落とし穴」にはまってしまう・・・でも、自分ひとりで何とか出来ること、なんていうのは非常に限られているし、ここは「私とあなた」だけで構成される世界ではない。色々な人、色々な出来事、色々な風景が、目の前にいるその人をケアする可能性を持って存在しているのだと思います。

何でこんな話になったのかというと、先日娘(1歳10ヶ月)と二人きりで家にいたときのこと。夕飯までお腹がもたず「パンが、たべたーい!!!」とごねてごねて手を焼いていたときに、ブルブルブル・・・携帯電話が鳴りました。それは彼女の大好きなお父ちゃんからの電話。電話に出してあげるとびっくりするくらいあっけなく機嫌は直り、電話を切ってからもパンのことなどすっかり忘れている!「おなかがすいたと泣き叫ぶ子どもvs夕食まで我慢させたいハハ」という、どっちも身動きできない構図が出来上がって「きぃぃぃ」となっていたところに、偶然「大好きなお父ちゃんからの電話」がやってきて、お互い「おかしな構図」から自由になれたのでした。この場合問題は何一つ解決していません。娘の空腹は満たされたわけではなく、またいつどんな拍子に「おなかがすいた!」と訴えてくるか分かりません。しかしその時にはもしかしたらおかずが一品出来上がっているかもしれませんし、私の「夕食まで待たせたい」という気分も変わっているかもしれない。ですから根本的な解決ができたというわけではないのですが、お父ちゃんからの電話は「状況を動かす」力を持っていたと言えると思うのです。それは、あの時の私には出すことの出来なかった力でした。こうして思いもよらぬところからやってきた力によって、思いも寄らぬ展開がおこったということ。これも、パッチングケアといえるのではないかと思うのです。

そう思うと、やはり核家族での子育てがしんどいのは、「思いもよらぬところから」やってくる力というのが、ない(あるいは少ない)からなのでしょうね。おばあちゃんがふっとやって来てあやしてくれるとか、兄妹やら従兄弟やらが手をひいてくれるとか、がないですものね。本当は小さくてたくさんの布でパッチワークができるのが最善なのでしょうが、何しろ関わる人が少なければ大きくて少ない布のパッチワークになってしまいます。そうするとどうしたって、少ない構成員の一人ひとりの負担が重くなるのは当然です。まぁそうは言っても、そのような制約の中で子育てをしなければならないことは引き受けなくてはなりませんが、せめて地域社会の力を借りながら「思いもよらぬ力」待ちをしたいなぁとは思います。・・・と言うと堅苦しいですが、地域の中に彼女が大好きな人をたくさん作ること、彼女のことを大好きになってくれる人をたくさん作ること、ただそれだけでいいのだというふうに考えています。家族だけで閉じずに開いていけば、それは子どもの持っている力だけでほとんど可能になることなのだと・・・

それから余談ですが・・・
2月に鷲田先生と内田先生の対談を聴きに行ってきます〜。私もホッチキスさんご夫妻のように「ニアミス」になってしまったりしないかドキドキ・・・その日はなんと娘の誕生日。娘からのプレゼントと思って、行かせてもらいます。