父と娘のお留守番日記3題(裸婦、ファミレス、追い風参考記録)

2週に一度のオット初々です。

先週の土曜日、初々さんは午前中が仕事、夕方からは職場の忘年会。ということで、朝の6時から夜の9時までの15時間の内、昼間の2,3時間を除いてほとんどこ初々さんと一緒に過ごしました。おそらく私の子育て人生の中で1日当たりの最長時間の新記録です。「たった十数時間が最長かい!」と世のお母さま方からお叱りの声が聞こえてきそうですが、まぁそういうことはちょっと置いておいて、その「父と娘のお留守番日記」から3題。

其の一:午前中は植物園に二人で遊びに行ったのですが、植物園においてある裸婦のブロンズ像を見てこ初々さんひとこと、「お母ちゃんだぁ」。私、「ハハハ、ほんとだねぇお母ちゃんだぁねぇ」。ものは裸婦ですからね、こういう場合だいたいそうであるように、若いそしてかなりグラマラスな女性なわけです。ふーむ、これが母ちゃんに見えたかぁ。でも確かにおっぱい飲んでるときはこんなんだったかなぁ。なんてことを思って可笑しかったのでした。

其の二:夜、ご飯を食べようと思った行った軽食レストランは、なんと貸切。で、子連れでも遠慮しなくてすむファミリーレストランへ。ファミリーレストランとカテゴライズされているだけあって、さらに土曜日の夜ということもあって、どっちを向いてもふた親そろった子ども連れの家族の姿。父子家庭はうちだけです。ああ、片親だけの侘しさってこういうことなのかなぁ、なんて思いつつ。で、こ初々さんが食べられそうなものを注文し、やってきたお料理を、大きなものは小さくし、熱いものはフーフーし、一口づつ子どもの口に運び、こぼしたものを拾って食べ、隣の席の子どもに気を取られるこ初々さんを前に向かせ、まぁ、毎食のように母の初々さんがやってることを私もやりました。で、気がついたこと。子どもと一緒に食事を取っている私ですが、全然食べた気がしない。うーむ、奥さんは毎食こんな中途半端な食事感なのかぁ、と初めて思い至ったわけです。

其の三:夜はお風呂に入って、絵本を読んで、こ初々さんは結局その日は母ちゃんの顔を見ることなく機嫌よく寝てしまいました。で、次の日の朝、いつものように早起きして先に起きていたこ初々さんと私ですが、後から起きてきた初々さんの顔を見て「帰ってきたん?」、で続いて「わーい、母ちゃんだ母ちゃんだぁ」と大興奮。いやぁ、まいったなぁ。前日はほとんど「母ちゃん」を呼ぶこともなく父ちゃんと二人で機嫌よく過ごしたこ初々さんでした。フフフ、父ちゃんでも母ちゃんと同じように立派に子育てできるではないかと思っていたのでしたが、やっぱりこ初々さん、我慢してくれてたのかなぁ、と思うとちょいと切ないのでした。新記録と喜んだのは追い風参考記録

人はどうも一つの「わたし」だけを生きることはできないらしい。常に複数の「わたし」を行き来していないと、どうしようもなく閉そく感を感じるらしい。子育ての“逃げられなさ感”って子どもが絶対的弱者の立場に立つことで、親は自動的に、強制的に、かつ単色の“保護者”という立場に立たされ続けることによる、と思うのだ。だから、初々さんも数時間でも“母”という役割から別の役割へとペルソナを付け替える時間が必要なのだ。母と子が孤立したとき、母は母で、また子は子でペルソナを付け替える機会を失う。その危険性を思うと同時に、つくづく人は一つの「わたし」では生きられないものだと思う。なぜ人は複数のペルソナが必要なのか。ペルソナそれ自体が、本人の顔ではなく仮面だ、ということに答えの鍵があるようにも思います。ねぇ、どうしてなんでしょう。