迫力負け

先日ちょっとした事情があり、看護学生の頃にした「急性期看護実習」の実習記録に目を通しました。とにかくもうずいぶんと前の話なので、受け持ちの患者さんの顔は思い浮かびますが、正直なところどんなケアをしたのかなどは殆ど思い出せません。そんな覚束ない感じで「あぁそんなこともあったんだったなぁ」などと思いながら読んでいると、「(患者さんに)迫力負けした」という表現に出会いました。それはどんな状況で出てきた言葉だったのか、ちょっと頑張って思い出しているうちに少しずつうっすらと記憶が蘇ってきて、「あぁ今も昔も、私はちっとも変わっていない」とため息が出そうになったのでした。

その当時受け持っていた患者さんは、がんの手術を受けたばかりの若い方でした。術後の回復のためには水分摂取が必要だったのですが、その患者さんはなかなかご自身で水分をとることが出来ず、「水分をとってくださいね」と声をかけても充分には水分がとれずにいました。しかし私は「水分とってくださいね」とひたすら言い続けるだけ、そして患者さんは水分がとれずじまい・・・ついには「患者さんが水分をとってくれない」と自分が途方にくれてしまったのでした。

なぜそのような事態になるのか、ということに関しては、看護師側にだけ問題があるとはいえませんが、この場合はもう「患者さんにとって(今は大変でも)水分摂取がとても大切であることを信じて、それを真剣に伝える」努力を私が怠っていたことが原因と言えます。「しんどいからあんまり積極的に水分をとりたいと思っていない」人に対して、どれだけそれがあなたにとって大切で必要か、ということを伝えられていなかった。そしてそれを伝えるためには「看護師である私自身が、その大切さや必要性を強く信じる」ということ、そしてそれを「伝えたいと強く願う」ということが必要になってくるわけで・・・その真剣さを私は「迫力」と表現し、そうすることが出来なかったことに関して、私は「迫力負けした」と内省したようです。もしその時の私に迫力があったならば、「水分をとってくださいね」とひたすら言い続けるだけではなく、水分をどうしたらとれるようになるのかあの手この手の工夫をしたでしょうし、患者さんにも「強く信じ、願うこと」が伝わって、彼女の行動に変化を生じさせていたかもしれません。

そして子育てをしている私を振り返ってみると、やっぱり迫力負けしっぱなし、なんですよねぇ・・・必要なことでも嫌がれば「まあいいか」と折れてしまうし、あまり積極的にあげたくないものでも乞われれば与えてしまう。中長期的な視点にたてば「そうしたほうが(そうしないほうが)いい」ことが、びっくりするぐらい出来ていません。まぁそれらが「いのちに関わること」ではないから、なのかもしれませんが、それにしても迫力のなさすぎる私・・・不必要に迫力を出す必要はないのですが、このままずっと必要なときにも迫力を出せないのではないかと一抹の不安がよぎるほど。

子育て中のお父さん、お母さんたちが、どんなふうに迫力を出して(あるいは出さないで)いるのか知りたいものだ、と思います。