形容詞が中心なのは、ハハ

娘はもう間もなく1歳9ヶ月。
このくらいの時期になると、話せる言葉もぐんぐんと増え、また話す言葉に子どもの個性が出て来ます。話し始めの頃は、「まんま」だとか「わんわん」だとか、同じくらいの年(月)頃のお友達と出て来る言葉の種類にそう違いはなかったのですが、面白いものですね。そうして気づいてみると、何故か我が子は「形容詞が多い」。「きれい」「おもしろい」「むずかしい」「あかい」「きいろい」「大きい」「小さい」「かたい」・・・まぁ挙げるときりがないのですが、「動詞が多い」ソウルメイトのバンコちゃんと比べるとその違いは歴然。きっと「名詞が多い」なんていう子どももいるのでしょう。なんていうことを考えていると、ある日オットが「これは子どもの個性というより、話しかける大人の側の問題なのではないか。」と言い出しました。つまりオットの言葉をかりれば、子どもに話しかけるときに「事実を言うか、あるいは心象を伝えるか」の違いなのではないか、と。当然前者は「名詞、動詞」が中心になりますし、後者は「形容詞」が多くなります。

うーん、なるほど。そう考えてみると、確かに私にはそのような傾向(事実よりも心象が中心になる傾向)があるような気がします。例えばお花を見たときに、「お花だよ〜」(名詞)と言うか、「きれいだね〜!」(形容詞)と言うかと問われれば、「きれいだね〜!」と言うことのほうが多いと思います。あるいは車が走っているのを見たときに、「車が走っているね〜」(動詞)とは言わずに「車、大きいね〜、速いね〜。」と言うでしょう。そしてそんなことをもっと拡大して考えると、「私という人間は、事実そのものよりも、事実をどう見るのか、その解釈のほうにより関心があるタイプである」とも言えて、面白いな〜と思うのです。さらにまたそれを拡大していくと、「唯一絶対の(客観的)事実というものはない。事実を見る人それぞれに(主観的な)物語がある、というナラティブな考え方になじみやすい」とも。ですから、時として「客観的事実を重視しすぎる」看護の現場に「なじめなさ」を感じることがありました。

そんなことを考えていると、かつて病棟勤務をしていた頃、ある精神科のドクターに突然「初々さん、ウチダタツル好きでしょ?」と言われたことを思い出しました。その当時お恥ずかしながら内田先生のうの字も知らなかった私は、「誰ですか、それ?」とドクターからお名前の綴りを聞きました。そうして書店で内田先生のご本を手にとって以来すっかり先生のファンになってしまったのだから、不思議なご縁。何しろそのドクターとは個人的にお話したことなど全然なかったのですから。そんな人がどうして「初々さんは、ウチダタツルが好きに違いない」と思ったのか謎だったのですが、私とドクターの接点といったら「看護記録」以外にない。きっと私の書く記録の行間から、「ウチダタツル」的なものが読み取れたのでしょうねぇ・・・それはそれでとても光栄なことなのですが、「客観的事実を書きなさい!」と口を酸っぱくして言われていた看護記録。そんなものから「ウチダタツル」的なものが読み取れてしまったら、本当は困るんです。でもどういうわけか、客観的事実だけを書けなかった私・・・それはおそらく、子どもにかける言葉が形容詞中心になるのと同じように、私の世界(あるいは人)の捉え方のクセみたいなもの、だったんでしょうね。「・・・と患者さんは言った」ということよりも、「そう言った患者さんの顔は不満そうだった」と書いてしまう。それは記録開示の方向へ向かっている昨今、訴訟にそなえて「ブッブー、×!」な行為になってしまうのですが、どうしてもそれをセーブできないところがあるようです。

まぁとにかく、そういう偏った人間であるハハとともに24時間一緒にいなくちゃいけない我が子・・・もうそれはよいか悪いかの判断は委ねますが、どうしたって影響を受けないわけにはいきませんよね。だいたいそうやって「形容詞ばっかり獲得していく」という影響が出てしまっているんですから。そう思うと怖いなぁ・・・でも仕方が無いんだよね。ぶつぶつ。