秋深し、隣は…なにしとんねん!

子育ての時間は実にラジカルだ(ね)。ということを、「あらためて考えると十月十日(私の場合これよりも若干短いですか)お腹の中に赤ん坊がいるってことはすごいな」というがばちょさんの言葉に、私もまたあらためて思っているところ、です。

そこのコメントにも書いたけれど、なぜ、どうして赤子は促成栽培できない? 試験管でも、どころか精子卵子ではなく体細胞でも「はじまりの細胞」ができるこの時代に。そして、母親でない女性でも祖母のでも、それどころか最近はたしか男のどこかの袋?もが「子宮」となりうるこの時代に。しかし「栄養満点(ブラジル産天然マカ使用)培養液で最新クローン技術による天才ピアニストがたった7日間で完成!」というニュースは、聞いた覚えがない。精子卵子が揃わなくてもいい、母親あるいは女性の「子宮」でなくてもいい、それでも「十年十日」だけは(いまのところ)手が出せないらしい。ともかく「はじまりの細胞」は生きた人間の体内の奥深い暗闇で、ひっそりと地球の生物の進化の歴史をなぞりながら、トクントクンとゆっくり脈打ち大きくなってゆくしかない。ということなんかな。

時間は、人間のさかしらな技術が手を出せない、最後の領域。でしょうか? そういや神だってたしか「6日で世界を作り終わる」というまさに神業をおやりんさったけど、「んでもって7日め、ヒマだったんで過ぎ去った6日を1日に縮めてしまいました」なんてことはしなかったはず。竜宮城から戻ってきた浦島太郎は、人間社会に戻る条件として(結果的に、だけど)、彼岸で知らずスルーしてきた時間を一気に与えられたし。時間こそが、人間あるいは生き物のもっとも大事なファクターなのかも。


ということをしかしふだん私はちっとも考えない。洗濯機は「R」マーク(rápid=「早い」かな)を押せば短縮コースで通常60分のところが40分。地下鉄駅では次の電車があと4分後に来るらしいから本を出して開いてみたり。朝は保育園が始まる9時から逆算して8時に朝食、8時20分にはごちそうさまして身支度をはじめ、40分頃に始まるアニメ「カイユー」を見出すと大変なのでその前にテレビを消し……。ここでは私が時間を管理している、つもり。

しかしまだ「おかあさんといっしょ」の体操のおねえさん・いとうまゆに「3時〜! おやつ〜!」と言われてもピンとこない(なんせ保育園で3時は昼寝中だ)、「人間ということを社会化という文脈で定義づけるならまだ半動物」あたりのニーニャ(来月で2歳)は、そういう「私」の時間感覚をちっとも共有してくれない。「もうすぐごはんだから、しかもハンバーグよう」と言い聞かせても、いま目の前の空腹にこの世の終わりと泣き叫んで、チーズもつけない焼いてもいない食パンをもりもり詰め込む。(そして野菜たっぷりこっそり練りこんだハンバーグは一口でお腹いっぱい。) 洗濯の合間に掃除して……と思っても「ママ、アキ(aquí=ここ)! あんよ!」と、いまは彼女の隣で一緒に「アンパンマン体操」をすべしそれ以外のこと禁止と厳しい顔で命じる。

「今日は急いでるからね〜」といつもより5分遅くバタバタと家を出ても、秋を迎えてハラハラと道路に舞い散る木の葉にいちいち立ち止まり、「あっぱ!」と教えないことには先に進んでくれない。そこに犬やトラックが通りがかろうもんなら、ハタと立ち止まってそれが視界から消え去るまで熱っぽく見送ること必至。だいたい、外に行く準備がぜんぶ終わってからウン○するし。お出かけ用秘密兵器のお菓子を出発直前に見つけて、いま食べるいま食べさせろじゃないとグワグワグワーンと大騒ぎ。ついでに隣のジュースのミニブリックも引っ張り出してこれも飲ませよと騒ぐので仕方なくストローさして渡すと、嬉しさのあまりギュウと握りしめるもんだからオレンジの液体が見事な放物線を描いてああ一張羅のワンピースに……。いまからぜんぶお着替えですかい!?


冷静な、余裕ある大人の言葉遣いでいうなら、「子どもにも固有の時間が流れている。隣り合って生きていく者同士、それを尊重しなければいけないね」。そして玄関に飛び散ったジュースを拭きながらふと見ると実はあまり喉が乾いていなかったことに気づいた娘が靴のまま居間に戻りビデオの表紙のアンパンマンに「あい、おーお(どーぞ)」とジュースを差し出しそこでまたオレンジの液体を噴出させているのを目の当たりにした母親の言葉遣いでいうなら、「ワレ、なにしとんねん!」。ともかく彼女に流れる時間は、社会に馴らされた私のそれとはまったく異なり、すごくラジカル。

ああそういえば、radicalとは「過激」でありそして「根本的」であったか……。赤子も幼児も促成栽培できない、それこそが生き物としてまっとうな人間の在り方なんだろうな。ほんとうは大人だって。

……と、ひとまず書き終えて投稿したところで、もともとこれを紹介するつもりだった文章があったのを思い出したので書き足します。出典は(もちろん)内田樹師匠の『私の身体は頭がいい 非中枢的身体論』(新曜社)p18「師弟関係について」*1

 私は師匠にこれだけ尽くした。だから、これだけのリターンがあってしかるべきだ、というふうな功利的な発想は師弟関係になじまない、と私は考える。
 いや、師弟関係に限らず、真に重要なすべての人間関係はそういうものではないだろう。
 例えば、育児がそうだ。私はこれだけの時間と労力を割いて子どもを育てたのだから、その分の「見返り」をよこせ、と子どもに要求するのは親として間違っている。育児というのはそういうものではない。
 育児が「無償の行為」だからではない。
 子どもを育てている時間の一瞬一瞬の驚きと発見と感動を通じて、親はとても返礼することのできないほどのエネルギーと愉悦を子どもから受け取っているからである。

*1:(おっ、オット初々さんのエントリーとも関係しますね)。