孝行したい

ここ2、3年くらいのことだけど、「師匠と弟子」というか「先生と生徒」という関係が気になっている。いやいや、特別に思索の俎上に乗せようとか、研究対象にしようというのじゃないんだけど。それで、気が向いたら師弟関係を書いた本を読んだりしている。
この間は、落語好きということもあって「赤めだか」を読んだ。これは立川談志を師匠にもつ立川談春が書いたもの。夜の12時から読み始めて朝の4時までかかって一気に読んでしまった。この本、自分の師匠五代目柳家小さんのもと(落語協会)を飛び出して立川流の家元になっちゃった談志に入門した談春の青春記、という体裁をとりながら、実は小さん-談志-談春を貫く落語師弟論としても読める本。というか、そう読んじゃったんだからしょうがない。

この「赤めだか」の出版に際して行われた記者会見で、談志は談春を評して「古典落語はオレよりうまいですよ」と言わしめている。あの談志に、だ。これは一般的に言えば、弟子冥利に尽きるというか、師匠にしたら自分を超えた弟子を誇りに思うの図なんだろうけど、談春、これ嬉しくないだろうなぁ、辛いだろうなぁ。身のすくむ思いと同時に、切ないんじゃないだろうか、と推測する。

で、私にも先生と呼べる人がいる。他の人は私のことをその先生の弟子だと思っているようだけれど、私はその先生を師匠とよべるほど、あるいはその先生の弟子だと自認できるほどには自身を認めていない。つまり、あまりに畏れ多くて、その先生の弟子だと認めることさえ恥ずかしいのだ。「不肖の弟子」にもとどかない。だが実のところ、学生のころ院生のころは、「自分には師匠と呼べる人がいない」と思っていた。だから、師匠を持っている他の研究者をうらやましく思い、その一方で“一人で大きくなった”ような気がしていたのだ。今考えると大汗だ。いや、そこに自分の師がいることさえ気づかないほど私が愚かものだったということだ。

それが大学を出て、働くようになって、自分が若い人から「先生」と呼ばれるような立場に立った時、自分が教えを受けていた先生の偉大さに気がついた。いや、学生時代から分かってはいたつもりだったけれど、先生と同じ立場に立つようになって初めて、本当の偉大さに気がついた。さらに、わずかながら自分の価値観や方法論の中に先生から受け継いだものがあることに気がついた。汲めども汲めども尽きぬ知識の泉、そしてそのすべてが正確。その知識に裏打ちされた洞察力。けっして偉ぶったり、高圧的な態度をとらない、とても穏やかな先生なのだけれど、その先生の前に立つと今でも緊張して呂律が回らなくなる。先生の前に立てば立つほど自分の至らなさ、無知さ加減に気付かされてしまう。だから先生の前に立つのは怖い。あまりに好きすぎて“先生、好きです”なんてとても言えない。思いが強すぎて、うまく会話ができず、ついつい無愛想になってしまっている、のではないかという恐怖に駆られる。これはもう(一昔前の?)自己完結型自滅タイプの中学生女子だ。

考えてみれば、私は先生を喜ばせるようなことを一度でもしたことがあったろうか。いつも気にかけてもらっているのは私の方で、先生を喜ばせるような仕事を一つでもしただろうか。いつか、いつの日かその先生に「あれは面白かった」とほめてもらえるような仕事がしたいと、なんだか親に認めてもらいたくてしょうがない子どものように思うのです。