辛抱してみると

先週東京の実家へ帰省しているときに、3人の子どものハハであり、ナース歴うん十年の(とっても大好きな!)大先輩にお会いできる機会を持てました。一緒に仕事をしている時から精神的にずいぶん支えてもらってきたのですが、今回もまたお会いしてお話していると、まるでカウンセリングをしてもらっているかのよう。帰路気がついてみると、こころも(なぜか)からだもぐーんと軽くなっていました。

その先輩がこんな一言。「こどものこと好きじゃなかったから、休みの日に一日一緒にいるとグッタリ。」そんな言葉を聞いて、何故かほっと安心してしまうのは何故なのでしょう。いや、この言葉をそのまま言葉通りに受け取ってしまうと「愛のない感じ」に聞こえてしまうような気がしますが、そうじゃないんです。この先輩は患者さんたちに対してとても丁寧で、細やかに対応する愛情深い人ですし、子どもを3人も産んで育てているのですから「こどものこと好きじゃない」わけではない。でもちょっと子育てにお疲れ気味の後輩を目の前にして、「子どもってかわいいよね。いいよね。」と言わずに、「子どもと24時間ずっと一緒にいるのは、私もしんどかったよ。」というメッセージを送ってもらえた。それが、何となく私の救いになったのでした。

まぁそうは言っても、一時の危機は既に脱しています。子どもが1歳6ヶ月、7ヶ月を過ぎたあたりから、「今日もあと○時間・・・」と指折り数えて時間が過ぎるのを待つということが自然となくなりました。それは私自身の心身の状態が少しずつ上向いてきたこともありますが、子どもが成長し、子どもの様子や過ごし方も変化してきたからだと思います。思えば1歳過ぎくらいから1歳半くらいまで、意思が立ち上がってきているのにも関わらずそれを伝達する手段がない(あるいは未熟すぎる)ゆえの(本人と周りの)苛立ちは相当なものがあった。そしてその途中でおっぱいもなくなり、不安と苛立ちがないまぜになってハハからひと時も離れられなくなってしまったのでしょうね。そんなことは頭では分かっているつもりでしたが、「これには終わりが無い・・・」ような気がして、彼女の気持ちを支えるよりは「離れたい」と願ったわたし。そんな気持ちを微妙に察知して、よりまとわりつく子ども・・・振り返ると、そんなドツボにはまっていたような気がします。

しかしそんな時期を辛抱して過ぎてみると、今目の前にいる我が子がかわいくてかわいくて仕方がない。そりゃあ一日ずっと一緒にいれば波長が合わないときも、イライラするときも、プンプン怒っているときも、それなりにあります。でも基本モードが「かわいい!ずっと一緒にいようね〜。ぎゅううう。」に変化している。そして気づけば、「どうしても離れる時間が欲しいから一時保育を利用しよう」という気持ちが自然となくなっていて、京都へ帰ってきてから再度利用の手続きをすることもなく暮らしています。「保育園どうするの?」と問うオットに、「いやぁ今は一緒にいたいのよ〜」と朗らかに答える私。「かぁちゃん、勝手だね〜。」と呆れながら子に呟くオット。そう、こんな蜜月も反抗期が始まってきたらどこかへ行ってしまって、「保育園へ行ってくれ」と願うかもしれません。ほんと、親って勝手なものなんだな。そして私もその例に漏れないのです。子どもは親の都合で振り回されるわけですが、そのこと自体はどうすることも出来なくとも、ようよう自覚しておこうとは思っています。

子と暮らして1年8ヶ月。まだ1年8ヶ月。もう1年8ヶ月。それは分かりませんが、振り返って思うのは、「しんどいときもあれば、そうじゃないときもある。状況は絶えず変化する。」ということ。しんどいときにはもがいて早く解決しようとしてしまいがちですが、子育てに関しては「待っていれば、状況が変わる」ということが分かりました。子どもは成長し、それに伴って状況も変化する。そこが、いわゆる介護と違うところなんですね。またしんどい時がやってきたら、「いずれ状況が変わってくれる」と信じて、早急な解決をせずに問題を先送りにできたらよいな。そうしてそれを可能にする体力(気力、精神力)を(今のうちに!?)養っておきたいと思います。