オメガのおっさん、やばいらしいで。

 昨日は、仕事やらなにやらがようやく一段落して、一日じっくり自分の時間…と、うっとりしていたら、前日の遠足で汗が冷えたのか、明け方、ヒコが少々熱っぽく、保育園も行きたくないと言うので、一瞬にして奈落の底…いやいや、我が子とじっくり過ごせるのですから、そんなことは言いますまい。しかしヒコは一日フルパワー。朦朧とした一日の終わりには、キャッチボールの相手も務めさせられ、いつどうやって布団に入ったのか、憶えておりません。ということで、翌朝投稿中です。そしてこれから、ホッチキス家へ参りますが、その前に、我が家でいちばん古い息子…車を受け取りに行かなくてはなりません。
 彼は、そう、思い起こせばくんちの前の日、元々予約していた塗装のやりかえをするために、いつもの整備工場へ行く途中、すぐ近くのホームセンターに寄ったら、なんとその駐車場で動かなくなってしまったのです(保育園へ向かう坂とかじゃなくてよかった…)。どうやら燃料ポンプがいかれたらしく、さらにはいろんなところから水漏れしていて、6気筒のうち3気筒が機能しなくなり、それでもなんとか、中古部品などを探してもらって、ようやく回復しなさったとのこと。今度の2月が車検で、もう一度は通すつもりだったのですが、いささか怪しくなってきました。結婚前から乗っているので、もう10年を超えた付き合い。ヒコももちろん、退院時からこの車に乗っているので、「おうちのぶーぶー」と言えば、紺のオメガワゴンです。でも昨日、トミカで遊んでいて「ヒコのぶーぶー」と指差した先を見たら、そこには、今、代車で乗っているダイハツ・ミラ(色も一緒)が…。
 人はもちろん、犬や猫や車やおもちゃや大切なものたち同士は、絶対的に違う時間や寿命を生きています。「おじいさんの古時計」のような、ほぼシンクロしていることなんて、それこそ、それだけで歌になっちゃうほどまれなことで、だいたいは時に長く、時にすれ違うほど一瞬だけの重なり合いです。ヒコも、大きくなればオメガワゴンのことは、すっかり忘れてしまうでしょう。「おうちのぶーぶー」は「うちのくるま」になり「俺んちの車」になり「オヤジ、いつまで若い気でいんだよ。そんな車乗りやがって」ということになり、やがてはヒコ自身が「あ、これ、俺の車」に乗る日も来るのでしょう。でも、たとえオメガワゴンともうすぐお別れし、ヒコがすっかり忘れてしまっても、ヒコとオメガワゴンが重なった3年は、確かなものとして、存在します。この車の中でおっぱいをやり、お出かけし、保育園に通い、楽しく笑ったり、ワガママ言って気まずくなったり、それは、たしかに流れた時間でした。
 私が小さい頃、隣の家に住んでいたおじさん…20年以上も会っていない、今は遠くの町にいるおじさんが、亡くなりかけていると聞きました。それを今の私にはどうすることもできないけれど、おじさんがタバコの煙で作ってくれた輪っかを、とてもおもしろく見ていた瞬間だけは、鮮明に思い出します。変な話だけど「大人って、おもしろいなぁ」って思って、大人になるのが少し楽しみになったのです。おじさん本人は、かなり「ロクな大人じゃない」人だったけれど、現実的な問題を離れてみれば、おじさんっていうのはロクな大人じゃないことが往々にしてあるものだから、そういう意味では、私にとっては、実におじさん的おじさんだったのかもしれない。
 重なり合う時間。それは当人たちにはどう左右もできないけれど、それこそがそれぞれの人を作っていくもの…ということで、ひょっとしたらオメガワゴンで行くのは最後になるのかもしれないホッチキス家への旅支度をいたします。みなさま良い週末を!