自然育児ブームのようですが

オットの実家から、ようやく京都の自宅に帰ってきた初々です。つい最近、「ん?」と首をかしげてしまったことをひとつ。

「お受験」やら「早期教育」やらの対抗勢力!?として、最近は自然育児ブームがあるようです。おそらくそれには時代の要請というものがあるのでしょうが、あんまり素直じゃない私は時々「気持ち悪いなぁ」と思うことも。どちらも一見対極にあるようでいて、実はその根っこにあるものは大して変わらないんじゃないか、というふうに思うのです。

例えば「子どもには化学調味料の入っていないものを与える。(だから)子どもは化学調味料の入っているものは出されても食べない。」なんていう記述をみると、眉に唾をつけちゃいます。「子どもには化学調味料の入っていないものを与える」も、「子どもは化学調味料の入っているものは出されても食べない」も事実でしょうが、この間を「だから」で結んでしまう、つまりそこに因果関係を作ってしまうのは「違うだろう」と思うのです。もちろん親御さんの徹底した方針によって、「子どもが化学調味料なんていう体にとっての毒を敏感に察知する能力を身につけた」(=からだにとって、本当にいいものと悪いものとが分かるようになった)可能性は否定できませんが、それを証明するためには不確実な要素が多すぎます。「こういうふうに育てたから、子どもはこうなった」と言いたい親の気持ち・・・つまり「自分の育て方は正しかったと(子どもで)証明したい」という親の気持ちが見え隠れして、嫌だなぁと思ってしまう。「お受験」や「早期教育」だって、結局そういうことですよね。

さらにぞっとしないのは、この場合子どもが「化学調味料の有無を察知している」のではなく、もしかしたら「化学調味料なんて入っているものを食べないで欲しい」という親の(言外の)メッセージを受け取ってしまっているかもしれないということ。もしそうであるならば、その子どもがこれから生きていく道はとても厳しいものになるのではないか。そう思うと胸が痛むのです。そんなに小さなうちから、親の望みをセンシティブにキャッチし、その強固な価値観の中で生きなくてもいいよ、と(お節介なのか)思ってしまいます。むしろ私は「食育!食育!」と親が頑張っていても、カラフルでジャンクなお菓子たちに目が眩む時期がある方が(何故か)ほっとしてしまうのです。

もちろん子どもにとってより安全なものを与えたい、そういう親の願いはあって当然のことです。私も可能な限りそうしたいと願う。その気持ちにかわりはありません。しかしおそらく「そんなふうにしてきてよかったんだなぁ」と思うのは、もっと先。「いやぁ大病もせずにようここまで大きくなった。だいたいこんな感じでやってきたのでよかったんだなぁ。」とほっとする。そんな程度ですませてあげたいなぁと思っています。