わたしにまつわる記憶、または物語として

言語化されない記憶、意識にのぼらない記憶が話題に上っていたので、言語化される記憶の重要性についても一言。特に、幼い頃のわたしにまつわる言語化される記憶だ。というのも言語化される私についての記憶は、私がわたしの物語を紡ぐ材料となるからだ。「私はこのようなものだ」という、簡単に言ってしまえば私のアイデンティティを紡ぐ物語の材料。私についての物語の根っこの部分を担うのが、子どもの頃の記憶なんだけど、大切なな根っこであるにもかかわらず、自分の内部に記憶されている材料は少ない。


「私はこんな子どもだった」、「私はこんな子ども時代を過ごした」という記憶をたどってみると、私の脳だけが記憶しているものは案外と少ないものだ。たとえば、「私は赤ちゃんホームを一週間で退園させられるほどよく泣く子どもだった」とか「1歳のお誕生日に買ってきた黒い帽子が気に入らなくて取り替えてもらった白い帽子は気に入って被っていた」とか、「生後3か月の最初の帰省で風邪をひいて、帰省先のお医者さんに診てもらった診察室が今ランチを食べているこの部屋だ(今は古民家を再生した食事処となっている)」とか、「三輪車と一緒に鉄の階段から落ちて頭を打って、身重の母に抱えられて走っている私の姿」とか、私にまつわるわたしの物語はすべて私の周りにいた人たちから何度も聞かされてきた話だ。こういう他者が記憶する私についての記憶は、子どもの頃の私(わたし)と現在の私(わたし)が同一人物であることを保証してくれる。私を、私が知らない頃から見続け、それを記憶し、その記憶を私に語ってくれる人がいるからこそ、私はかつて自分が子どもであったことを確信できる。逆に言うと、「過去の私と現在の私が同一人物であるという確信」は、それが確信されているほどには安定したものではない。


先日、用事があってある児童養護施設を訪ねた。児童養護施設は、経済的事情、育児放棄・虐待、親の病気、死別など、さまざまな事情で親に育ててもらえない子どもたちが暮らす施設だ。その施設では子ども一人ひとりのためにアルバムが作られている。で、大きくなってその施設を出る時に、子どもはそのアルバムを持って出てゆく。この話を聞いて、もうほんとうに泣きそうになった。写真という外部記録装置以外に、自分と特別な関係を持って、自分が幼かった頃のことを覚えていてくれる人がいないのだ。子どもたちは、アルバムに張られた写真を自分の根っことして、自分の物語を紡いでいかなければならない。そう言えば、映画「ブレードランナー」に登場するレプリカントたちは、自己システム安定化のために、にせの“子どもの頃の記憶”が組み込まれているのだった。


2年前、妻の妊娠がわかったとき、親として子どもに残せるものは、わたしを作る材料をたくさん用意してやること。この子の「わたし」にまつわる記憶をできるだけ多くの人にとどめることだと思った。私たち夫婦は、無謀と言われながらも出産1か月前に、マンション暮らしから地べた暮らしに引っ越した。引っ越し先は築年数不明の、長屋と言っていいほどの古い家屋で、前のマンション暮らしから比べると、不便な点は山ほどあるのだけれど、近所にはお年寄り、おじちゃん、おばちゃんたちが多い。また、親戚たちや私たち夫婦の人間関係の中に、できるだけこ初々さんを連れていくようにしている。それらの人たちは、初々さんの妊娠中の大きいおなかを見、バギーに乗せられて寝ているこ初々さんを見、歩きはじめたこ初々さんを見、話し始めたこ初々さんを見て、こ初々さんにまつわる「わたし」の記憶を残してくれているはずだ。そして彼女が大きくなったとき、「私はおしめを換えた」とか「あんたはいつも父ちゃんにおんぶされていた」とか、こうしたとか、あんなこと言ったとか、彼女に語って聞かせてくれるはずだ。


こういう他者の中に分散して蓄えられた「わたし」にまつわる記憶が、言語化されて彼女にフィードバックされた時、その記憶は、彼女の物語を形作る材料となってくれるはずなのだ。「私が知らない私」を記憶している人が周囲にたくさんいてくれることは、その人が、自分の生を連続し、安定したものとして物語れるための財産になるだろう。
そして、このブログも、それぞれの子どもたちへ父と母からの言語化された記憶あるいは物語として。