金だらい、ガーーーン、分かります

明日から岩手の祖父母のもとへ行くので、今週は事前投稿させてもらいますね。以下本文。


金だらい、ガーーーン・・・すっごくよく分かります。トンビさんの記事を読みながら、ある患者さんのことを思い出しました。

パーキンソン病にともなう鬱病を発症された40代の男性患者さん。パーキンソン病の諸症状のため、様々な日常生活動作に介助が必要でした。でももちろん介助が必要であるとはいえ現存の機能を維持するためには、ご自身で出来ることはなるべくご自分でして頂く、また出来ることを可能な限り増やしていくような方向で援助しなくてはなりません。そのためベッドからの起き上がりも、「足を下ろしてから、ここを手で持って、こういう方向に体を向けながら起きて・・・」とお伝えしながら、必要最小限だけお手伝いの手をそえていました。しかし鬱病の症状なのか、あるいはもともとのキャラクターなのか、どうもその方はずいぶん依存的でなかなかご自分でされようとせず、いつもちょっとした「言い合い」になることが多かったのです。そんなある日の深夜勤務のこと。朝バタバタと忙しい中で、「トイレに行きたい」とその方からナースコールがあって訪床しました。いつものように、「はい、じゃあご自分で起き上がってみましょう〜」と声かけをしながら見守っていたのですが、「できない・・・」を繰り返されるばかりでちっとも起きようとされません。「昨日はできたじゃないですか、ご自分でされないとだんだんと出来なくなってしまいますよ。」「昨日はできたけど、今日はできない・・・」「やればきっとできますから、出来ないところだけお手伝いします」「でもできない・・」そんな押し問答を繰り返しているうちに、ブブブブブ・・・「あ、でちゃった」・・・なんと大・便失禁です。それも、その方のご様子から、どうも(私へのあてつけで)故意に便失禁されたとしか思えない。今から思えば、大の大人が便失禁してまで「したくない」と抗議の表明をされたのでしょうから胸の痛む話ではあります。しかしその時の私は、「わざと便失禁するなんて、ひどすぎる!この忙しいなか、この人のためを思ってしていたのに!」と怒りでワナワナしていました。子どものうんち処理ならちょちょいとやって終わりますが、大人のそれはもう本当に大変。トイレに連れていって、あちらこちらを便まみれにしながら、どうにかこうにか汚れた衣服を脱いでもらって便をきれいに拭き取り、そのあとにはシーツ交換やら汚れものの処理やらもあります。ほかにもしなければいけないことは山積みで、ヘトヘトどころかヨボヨボになってナースステーションに戻り、「正直、殺意を感じました。」と先輩ナースに申し送った、ナースあるまじき態度の私・・・まぁとにかく、「さっさと手を貸していれば、ドミノを蹴らずにすんだのに。巡り巡って、金だらいが頭の上にガーーーンと落っこちてくることもなかったのに。」という話です。

そう、子を持った今そのことを振り返ってみると、「何もそんな忙しいときに、わざわざ押し問答しながら自分でやってもらわなくたってよかったじゃないか」と思うのです。その時の状況、その方のそのときの意欲などを総合的に判断すると、「なるべく自身でやってもらう」という「正しい対応」を押し通す必要なんてなかった。きっと「次はもうちょっと頑張ってみましょうね〜」とか何とか言いながらサラリとお手伝いをして、時間のある日勤帯でリハビリを頑張ってもらうように申し送っておけばよかったのです。おそらく忙しくて余裕のなかった私の態度はやや高圧的だったでしょうし、そんな態度を敏感に察知されて「いやだ」と意思表示された。またその方の依存的なキャラクターが、「何とか自分でやってもらいたい」と私が固執することを「引き出した」可能性もあります。とにかくそういう二人の相互作用があって、「便失禁の大惨事」という事態を招いてしまったんですね。

これは、子どもを相手に今でも私が失敗を繰り返すことです。その時の状況やら子どもの様子を無視して、「正しい対応」を押し通そうとすると、あるいは「忙しい」を言い訳にきちんと関わってやらなかったりすると、だいたいドミノを蹴ってしまって私の頭の上に金だらいがガーーーン・・・「かまって〜(翻訳)」というときに少々邪険にして、ずうっとまとわりつかれて「結局なんにもできなかったよ〜」ということなんて日常茶飯事。ほんのちょっと手をあけて、ぎゅうっと抱きしめてから少し遊んでやるだけで本人は満足したでしょうに、その時の私の精神状態だったり、忙しい状況だったり、あるいは子どものごねごねしている様子全てが「私に、そうさせない」んでしょう。状況判断が的確にできて、フレキシブルに対応を変化させることができればそんな事態は避けられるのでしょうが、まぁ生きた人間にはそう完璧なことはできませんわね・・・せいぜい金だらいが落っこちてくるたびに「どこでドミノを蹴っちゃったかな」と反省する程度しかできないような気がします。だってきっとそれが相互作用であって、生きた感情のやりとりの(ひとつの、ネガティブな)帰結だからです。そういうものを全部ひっくるめて、「よ・・・よしとしよう」と言えるようになったらいいな、と思っています。